<life>fool</life>

愚者の人生。

日記。

 絶望は死に至る病だとキルケゴールは言ったが、それを正しいとするならば僕はまだ生きているので、本当の絶望というのを知らないということになるのだろうか。それとも、生きることの終着点に、逃れようの無い死が存在する事実から考えると、つまり生きることがイコール絶望であるということなのだろうか。だとすれば随分と悲観的な物言いだな。
 物事は俯瞰的に見ると喜劇であり主観的に見ると悲劇である、と誰が言ったかは覚えてないが、詠み人の名が解らずとも正しさは変わりない。僕は自分に対して努めて俯瞰的でいようとしている。鈍感と言い換えてもいい。その鈍感さが知らずうちに物事を喜劇的に見る目線を与えてくれるのであれば、鈍感なかなか捨てたものでもないと思う。深刻さなんてそもそも信じてないし。

 敬愛する坂口安吾は「教祖の文学」でこういうことを言っている。
 『人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえというのは成り立たない。恋は必ず破れる。女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起こり、去年の恋は今年は色がさめるものだと分かっていても、だから恋をするなとは言えないものだ。それをしなければ生きている意味がないようなもので、生きるということは全くバカげたことだけれども、ともかく力いっぱい生きてみるより仕方がない。』
 ことほどさように、生きるとは仕方がないことなのであり、本質的にバカげていることなのだから、そんなものを深刻ぶったって誰も見てないさ。そしてまた、バカげているからと言って世界のすべてがモノクロに見えるわけでもないのも真実だ。『教祖の文学』の締めの言葉はこうだ。
 『人間だけが地獄を見る。しかし地獄なんて見やしない。花を見るだけだ。』
 花を見る生き方をしていたい。ただそれだけだ。とはいえそう決めたからそうできるという訳でも無いのが人間の常で、そういうときは胸の奥の方がグッと締め付けられたように苦しくなる。この感覚に襲われるたびに少しだけ「これで終われるのかしら」と思ったりもするけど、全ての感情の高鳴りがそうであるように、この感覚もまた一瞬のもので、あとは汐のように引いていくだけだ。つまらんことを考えたものだな、と頭を掻いて、また花を探しに行くだけである。

 
 人間誰しもめいめいが苦しみを持つもので、老若男女そこに差を設ける考え方を僕は好まない。大人の苦しみが、ただ大人だからという理由によって、子どもの苦しみよりも重く見られるというようなことがあってはならないと考えている。と思ったらこれもまた坂口安吾が似たようなことを言っているのを発見して、苦笑してしまうな。本当に、何かと何かの継ぎ接ぎでできていると感じる。けれど大森靖子さんだって「オリジナルなんてどこにもないでしょ」なんて言いながらあんなにかっこいい姿を見せてくれるのだから、あまり気にしても仕方がない。自分が継ぎ接ぎであったとしてもなお、自分は自分でしかないのだし、今日生きた時間は自分だけのものなのだし、そうやってなんとか言いくるめて夜を越える。ときには文字を書く。運が良ければ誰かに読んでもらえる。インターネットというのは偉大なもので、書いたものは長いことそこに残る。僕が大好きだった小説家は何年か前に死んでしまったけれど、彼の書いた小説はいまだに検索窓にタイトルを打ち込めばヒットするのだ。

 この前観た「ダラスバイヤーズクラブ」という映画の感想を書こうと思っていたのだけど、伊藤聡さんのblogに書かれていた感想が完璧で、付け加えるものがなにも無かったのでいいや。最高の映画だったよ。

 「九月、東京の路上で」を読み終えた。約90年ほど前の関東大震災の折に、自分が住むここ東京で虐殺と呼ばれるものが繰り広げられたというのは、知識としては知っていたけれど、当時起きた事件の一つ一つを当事者や観測者の生の声のままに読むというのは重たい。暖かくなったら、文中に出てきた土地の一つ一つに行ってみよう。

 一日本を読んで音楽を聴いていた。会いたい奴に会いたいなあと思った。それだけのことが、どうにも難しい。