<life>fool</life>

愚者の人生。

死にたい人と安吾と治ちゃんの話。

 その昔うわ言のように死にたい死にたいと呟いてた自分がそれを止められたのは、坂口安吾の「不良少年とキリスト」を読んでからだ。俺はこれ読む度にぽろぽろ泣いちゃうのである。

 人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
 生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
 死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。

このあとに続く文章は、世界で一番好きな文章かもしれん。

 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
 勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。

 こんな美しい文章に対峙してまで、この圧倒的な正しさを目の前にしてまで、「死にたい」を押し通せる?俺には無理だ。だから死にたいというのを止めた。だって死にたくねえんだもの。言うだけ無駄だよ。ねえ。

 俺は「死にたい」という言葉を吐く人が基本的に好きで、美しいと思う。それは「死にたい」の裏には必ず「生きたい」が隠れているからだと信じているからだ。理想を持っているのだ。本当には死にたいのではなくて、色々な理由によって理想のように生きられないから、いっそ死んだほうが良いってくらいに考えるのだ。つまりは拗ねているだけだ。だけど、世の中にはそこまで思い詰められない人もいる。理想を持たずにある程度のところで妥協する人が山ほどいる。そっちの方が何故か正しいことだとされている。俺はそういうことを嫌悪している。

 考えすぎるなとよく人は言うけど、それは何でかって言うと多分物事を突き詰めて考えれば考える程死にたくなるからだと思うんだよね。世界はそんなに優しくないから。でも、だからこそ俺は人に考えすぎるなと言うのは嫌いだし、言われるのはもっと嫌いだ。もっと皆苦しめばいいと思うし死にたくなったらいいと思ってる。実際死なれたら困るけど。

 「不良少年とキリスト」は安吾が太宰への思いを綴ったエッセイだ。太宰の自殺に端を発して書かれたものだ。ここで安吾が分析している太宰像というのは多分一番実存に近いのじゃないかな、いやそれは解らんけど少なくとも俺が思う太宰治という男の像とピタリと嵌る。

 太宰は思想の上では常識人だったし、善人だったし、良識のあるただの一人の男だった。あのね、思想と行動というのは食い違うんだよ。その食い違いをどれだけ一致させていくかが人生っつーもんで、だから今できないからといって大きなこと言っちゃいけない訳じゃない。今の自分がクズだからって「どうせ俺はクズだよ」みたいなこと言ったところで何も変わらん。そう言ってると安心するけどね。太宰の「人間失格」なんかはそれを小説でやってる。から俺はアレは笑う小説だと思ってるし、しょうもない小説だと思う。
 でも「斜陽」や「畜犬談」「正義と微笑」なんかは違う。あれには理想がある。背伸びをしている。だから俺はこれらの作品が太宰の真骨頂だと思うし「人間失格」のイメージで太宰を語られるとすごいなんか腹が立つ。ちきしょー!太宰だって頑張ってるんだぞ!って思う。まー結局治ちゃん死んだけど。そう、結局死んだのだ。だから安吾はめっちゃ怒ってる。死ねば終わりなのだ。自殺なんてしちまうのはね、完全なる自己否定なんだ。自分の今までの良きこと悪いことを全て無に帰する行為だ。だからダメだよ。なんつーと良きことなんてない!って死にたい人は思うかも知らんけど、そんなことねーから。その存在とたましいがすでによきものなんだ。

 結局理想は成就できないものだし幸せなんてのは掴めないもんかも知れないけど、だからといって諦めていい訳じゃない。諦めたら全て終わりだよ。だから、死ぬまで幸せに手を伸ばすし、理想を目指して生きなきゃ嘘だ。俺はほんとにそう思う。

 ほんとにもう死にたい死にたい言ってる奴はね、今すぐ青空文庫かなんかで「不良少年とキリスト」読むがいいや。その後でも死にたいって、多分言えなくなると俺は思うのだよなあ。

 いいんだよ、死にたいって思うのは普通だ。死にたいって言って笑われるのはさ、笑ってくる奴が死にたいとすら考えられないような浅薄な奴だからだよ。気にすんな。そんな愚図に気を取られるより、死にたいなんて言ってる自分を前向きに高らかに嘲笑できるようになった方がなんぼかいい。

 死にたいなんて、下らんよ。ただ理想を目指して日々を生きればいい。つらくても、その方が楽しい。今がどれだけクソみたいでもさ、矛盾するのが人間よ。誰にも否定できることじゃない。それを否定する人間がいるならば、それは一人の人間が必死に生きようとしている行為を押しつぶすのと同じだ。地獄に落ちろって思うよ。心からさ。

 マシンガンとか抱えて永田町でも渋谷スクランブル交差点でもどこでもいいけどさ、突っ込んでいきたいってたまに思うんだよ。でもそれで世界が良くなるかっつーとそうは絶対にならんので、そんなことはしない。
 俺は俺が思う素晴らしきたましいの持ち主たちを肯定し続け、冷笑や諦念に侵された愚図共を否定し続ける。そんで死ぬ。そういうことに希望を持っている。バカでしょう?でもその方が楽しいんだから仕方ないのである。

書くことについての話。

 今回もまたすごく個人的なことを書きます。

 自分がこうやってインターネットの片隅で物語にもならない情動を書き殴ることが何かになるとは思っていない。表現行為だとも思えないし、ほとんど無駄だとすら思う。近頃は読んだ人が嫌な気になるようなことに関してはなるべく手帳に書き綴るということをやっているけれど、それ以外のことは基本的にここだったりtwitterに結構アレな勢いでダーっと書いてしまって、その度になんつうか鼻白む人もいるんだろうなあとか考えたりするんだけど、やっぱり止めることはできない。それにはいくつか理由があって、それを書こうと思う。

 小さなころから人の書いたものを読むのが好きで、小説はもちろん新聞や雑誌、果ては広告に至るまで、とにかく文字の書いてあるものは俺にとって遊び道具のようなものだった。そんな自分がwebの世界を知ったのは小学生くらいのころだったろうか。整形された言葉ではない人々の生の声の集まり、掲示板だったりチャットだったり個人サイトだったり、それはもう宝の山のようで、俺は殆ど狂喜していた気がする。

 そんな中で、特に俺の興味を引いたのは独白めいたテキストだった。誰に贈るでもなく、好かれるためにでも嫌われるためでもなく、ただありのままの自分の気持ちを言葉にしているもの。そういうものだけが本物の気持ちであるような気がした。

 その頃は特段意識している訳でも無かったが、昔から今に至るまで俺はコミュニケーションというものをほとんど信用していないのだなと思う。どんなに会話を交わしたところで、相手が本当には何を考えているのかなど解らない。概ねこうだろうと予測することはできるけれど、結局それは問うだけ無駄な問題のようなもので、答えの無い永遠の謎なのだ。完璧に解り合うなどということはただの幻想にすぎない。

 とは言え、解り合おうとする行為が無駄だとも思えないのだ。人は孤独では生きていられない生き物だし、何時まで経っても誰かと繋がり合おうとする。だから、繋がり合いたい気持ちが様々な行動を人間に取らせる。俺とて例外では無い。俺にとって一番好ましいのがこのような形式なのだ。
 独白のようなテキスト。誰に読ませる訳でもなく、物語の形を取るでもなく、でも誰かが読むかもしれないもの。そこには奥ゆかしさと羞恥がある。自分への疑いがあり、けれどもそれでも吐き出さずにはいられない逡巡がある。臆病でありながら力強く、飾り気の無い美しい言葉がある。そういうものに真実を感じる。相互理解の幻想に中指を立てて、しかし何処か諦めを捨て切れずに言葉を綴る行為を、或いは惨めで汚らしいことだと忌避する向きもあろうが、俺にとってはその行為は何よりも勇敢で壮烈な生きる意志の発露だ。諦めへの拒絶だ。惨めで汚らしいことなど解っているよ。

 俺が好むものには全てそういう性質がある。小説にも、音楽にも、映画にも。そしてweb上を揺蕩う数多のテキストにも。昔から今に至るまで、ずっと俺はそういうものに生かされてきた。生まれついての懐疑屋にとって、少しでも信じられるものがあることがどれだけ救いになることか。

 昔、俺がよく覗いていたサイトがあった。小説家を目指す人のサイトだった。そこにはその人が書いた小説と日記があって、日記は毎日のように更新されていた。「小説が書けない」とうわ言のように綴られ、まるでその代替のように書かれた膨大な言葉たちはときに呪詛のようでもあったが、その意志の発露は間違いなく俺を救ってくれた。そういう風に生きる人がいることそれ自体が希望だった。だからそのように俺もやる。それだけのことだ。同じように誰かの希望になりたいとか、誰かを救いたいなどとは思わんし、なれるとも思ってはいないが、何のことはない。あの人もそういう風には思っていなかったことだろう。

 また別の話だが、尊敬する坂口恭平という男がいる。自殺志願者や、それでなくても話を聞いて貰いたい人の電話を個人的に受け付けるといった行動をしていた。しかし、あるときパタっとそういうことを止めた。コミュニケーションは人間に必要不可欠なものだが、本来的にはそれはとても難しいものなのだ。彼がそれをやめたことは、彼に寄り掛かることをしていた人にとっては裏切りのように映ったかもしれないが、何かに寄り掛かる限り人は幸せにはなれない。寂しさは埋まらない。だから、俺にとってはとても納得できる選択だった。
 彼は今個人サイトで「坂口恭平日記」を綴っている。読むととても勇気が湧く。それだけで良いのだ。直接的な接触など、そのときその場にいる人とすればいい。彼と直接話したことがなくったって「死にたくなったらものを創れ」と綴られたその言葉はきっと誰かを救うだろう。だがその言葉は誰に向けられたものでもない。

 こんなことは無意味だ、と言う言葉のせいで死んでしまうことはたくさんある。だが、誰かが受け取る可能性がある限り、意味を決めるのは自分ではない。俺のこの行為は無意味で無駄だが、それだからこそいいのだ。だいたい、どれだけ無意味を貫こうとしても、そこには意味が生じてしまうものだ。それが人間の怖ろしくも美しいところであると俺は信じているよ。
 

ライブに行った話。

 すごく個人的なことを書きます。なんかまずい記述あったら連絡して下さい。対応しますので。

 6/9にEurekaというバンドのLIVEに行った。ミニアルバム「α」のリリースツアーファイナルだった。Eurekaは僕が大学時代在籍していた軽音楽部の仲間がやっていたバンドで、もうかれこれ7年ほどの付き合いになる。対バンもUnknown pleasures、Proxyonと、同じく昔の仲間や先輩がやっているバンドが集まっており、なんというかプチ同窓会のような体をなしていて楽しい夜だった。(もう一組、Melanche[n]tryというバンドは初見でしたがカッコ良かった)

 現体制でのEurekaの音楽がLIVEで聴けるのはあと1回のみとなる。

 何かを創るというのは、先も見えない暗闇の森の中で頼る縁もないままにこれと信じた道を手探りで突き進むことだと思っている。履いた靴が水溜りに濡れ、木々の枝葉に身を切られる事もあるだろう。無傷でいられるはずもない。最早これまでと、膝を折ることは珍しいことではない。そこに至るまでの逡巡を俺は知らない。知る必要も無い。だから過剰に反応することもない。闘ってきたのは彼らであって俺では無いからだ。

 夜が明けて音が途絶えて、あれは一時の幻だったのだろうかと疑うこともあるだろう。だが違う。幻ではない。確かにそこに在る。俺はただそれだけを信じている。残された我々にできることは忘れないこと、ただそれだけだ。そしてまた彼らは素晴らしいアルバムを創った。形ある物は残る。それすらもいつか消え去る時が来るのかどうかは知らない。興味もない。

 誰かが進む。その誰かが持つカンテラが灯っている。それは暗い森に光を放つ。その暖かさに人が集まる。だがいつしか灯りは消え、暗闇が戻る。集まった者たちは散らばってゆく。別の灯りを探したり、暗闇に怯えたりするだろう。だが、いつか気づくはずだ。自分の手にカンテラが在ることに、そしてそれが弱々しくも灯っていることに、気付くはずだ。

 そうやって誰もが違う道を往きながら、誰かが、幾千の屍体を越えながらでも誰かが、いつか思い描いた場所に到達しさえすればそれで良い。それだから良い。

 今もどこかで誰かがカンテラを片手におっかなびっくり前へ前へと進んでいる。倒れた者たちも、形を変えて甦りながら進もうとしている。だから暖かさだけを享受することは止めよう。それはもっとも怖ろしく、また哀しい破滅への道だ。だが、我々が我々にできる方法で灯りを繋いでいくことさえできたら。それだけが、暗闇を進む者たちの生還への道となる。俺は本当にそう思うよ。そう信じています。

Eureka Next live→7/18(木) 音景-anotherline- @新宿Motion

さよならと、バイバイと、じゃあねと、またね。

 「さよなら」という言葉は苦手だ。「バイバイ」も良くない。「じゃあね」か「またね」だったらまだマシだが、それでもやはり別れは寂しいものだ。僕はとても出不精な人間なのだけど、その理由の一つは「またね」を言うのがつらいからだ。

 見送られるのは特に苦手だ。どうしても見送っている側の寂しさを考えてしまう。去って行く方も勿論寂しさはあるけれど、同時に次に出会う何かへの期待を持つことができる。それに対して見送る側はそこから動けない。寂しいだけだ。それを考えるとどうしても見送られることに躊躇を覚えるのだ。そんな風だから僕はいつも見送る側に居ようとしてしまう。
 「別離」というものは人間にとって乗り越えるべきものだ。絶対に必要だ。それが分かっているのに僕の見送り癖といったら、ある種偏執的ですらある。これから僕と出会う人はよく注意して見ているといい。よっぽど事情が無い限り、僕はその場において最後の一人になるまで動こうとしないはずだから。

 もう五ヶ月かそこら、一人でほとんど引きこもりみたいに色々なことを考えて、やっと最近そのステージを終える準備ができたような気がする。だからこれからは人と出会い話をしなければいけない。そのために僕はいい加減に人と出会う時に回避不可能な「別離」を受け入れるべきなのだ。電話に出れないのも、メールを返せないのも、ひっそりと挨拶もせずに姿を消してしまうのも、全部別れるのが怖いからだ。もうそんなことではいけない。

 見送るなら見送るで、見送られるなら見送られるで、どちらの孤独もきちんと受け入れなければ。などと思いつつ、去って行くよりはその背中を眺めている方に居たいという気持ちが消えないのは、これはやっぱりよくないのかなあなどと、クリープハイプの「欠伸」を聴きながら思うのでした。「じゃあね」と「またね」しか言いたくねえよー。

クリープハイプ「欠伸」

面影ラッキーホールというバンド

 お久しぶり。
 ここ最近映画を観る気力が無く、このblogも放置気味になってたよー。ごめんなさい。


 今日は映画じゃなく「面影ラッキーホール」というバンドの紹介をしようと思う。ジャンルとしてはファンクとかになるのかな?とにかくまあ、普段自分が聴いてる音楽とはちょっと毛色が違うんですが、最近ドハマリしているんですよ。その理由はひとえに詩世界。
 「あんなに反対してたお義父さんにビールをつがれて」「好きな男の名前 腕にコンパスの針でかいた」「パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・夏」「あたしゆうべHしないで寝ちゃってごめんね」etc...。これが全部楽曲のタイトルなんだけど、もうなんかヒドイよね。

 歌詞は全てタイトルの通りの物語調になっているのだけど、これがもう、駄目男駄目女のオンパレード。人間の業みたいなものを圧縮抽出したような詩世界です。なので一聴して拒否反応が出る人も多かろう。それは仕方ないと思う。
 じゃあなんで僕がこの人たちの曲に惹かれるか。なんかねえ、懐かしいんだよねこういう世界観。生まれのせいだと思うんだけど。たとえばね、品行方正、清廉潔白な人生を送ってきたようなひとが「あんなに反対してた~」を聴いたところで
 「DQNが無茶やって自業自得で色々あって、まあ最後は結局良い話みたいになってるけど結局DQNじゃん」
 の一言で終わる気がしたりする。(そうでない人ももちろん居るのは分かってますけど)
 でも、僕にとってはこの歌詞はすごくリアルな、なんなら中学時代の友人の顔が浮かぶくらいリアルなものとして胸に刺さるのだ。

 パチンコ屋に行けば、子ども死なせてそうなヤンママは居るし、好きな男の名前腕にコンパスの針で書いてる同級生も居た。いや、奴らに至っては墨汁もセットで墨入れてたな。とにかく、日本という国は自分たちが思ってる以上に教養格差ってのがある訳ですよ。俺はそんな片田舎山口が嫌で嫌で東京まで出てきたんだけど、やっぱり産まれた土地育った土地での記憶ってのは懐かしさを覚えるもので、歳を取ると特にね。
 だからそんな自分にとって面影ラッキーホールの曲はすごくリアルに胸に迫るし、とてもじゃないけど笑えない。シリアス。ぐっとくるんだよなあ。
 おすすめするつもりが、ほんと特定の人にしか響かないような感じになっちまったけど、田舎で育った人間/人の弱い部分に向き合える人間/違う世界を見たい清廉潔白な人は一度聴いてみるといいんじゃないかなと、思ったりする。

 そしてなんか、目線がね、公平なのよ。登場人物の愚かさを笑う訳でもなく、かといって肯定するでもなく。ただただ物語を歌ってるから、嫌味が無い。踏み絵みたいなもんで、聴き手によって物語の登場人物に思うことは変わるんだろなあって思ったりする。現実を突きつけてくるって意味では、心情的にどっちかに寄ってるより残酷なのかも知れないけどね。
 汚い部分愚かな部分から、人間は目を背けたい訳で、だから通常夢や希望が物語られるし歌になる。これはもちろん否定されるべき事柄じゃないんだけど、そういう「美しいモノ」の影に救いようのないどうしようもなさを抱えて生きてる人間が居たりするんだよ。面影の曲は、そういうことを思い出させてくれるんだよなあ。そしてそれはやっぱり僕には大事なことのように思うのだ。

 個人的に園子温映画を観たときと同じような感情を抱く。似てない?どうかなあ。
 興味が沸いた人が居たら、ぜひとも聴いてみてくださいな。
面影ラッキーホール「ゴムまり」

代理母

代理母