<life>fool</life>

愚者の人生。

生きている。

 JR渋谷駅ハチ公口の改札を抜けると夏だった。まだ五月だというのに確かに夏の匂いがした。じっとりと汗ばむ背中が蒸し暑くて、けれども嫌な感じはしない。駅から二十分程歩いた先には我が家がある。引っ越してから2年は経つかというのに未だにうまく歩けないスクランブル交差点、抜けた先は道玄坂、の、人混みをおっかなびっくり躱す、足取りはなるべく早く、イヤホンから流れる音楽に集中して、できるだけ音量を上げて、耳を塞いで。嬌声、怒声、笑声、全てが煩わしい、物憂い。だが下は向かない。前を向いて、なるべく胸を張って、平気な顔で歩く。音楽に乗って足を前へ、右足と左足を交互に動かす。そのうちにだんだんとそれが自動的になる。機械化された下半身は、立ち止まりたい動きたくないもうこのまま一歩だって歩きたくないという意識とは全く無関係に私の身体を自宅近くまで運び続ける。道玄坂を登り切って左手に牛丼屋、右手にコンビニ。曲がって円山町のホテル街から神泉へ。飲食店が立ち並ぶ道を抜けて、人通りが少なくなったところで煙草に火を点ける。それを一本吸いきるくらいでちょうどドアの前だ。
 鍵を開けて部屋に入って電気を点けて、スナネズミの様子を確認した後ベッドに倒れこむ。耳元で支えてくれた音楽を止めるのに少し躊躇して、曲が終わるまでイヤホンは挿したままでいる。最後の一音が鳴り終わったあと停止ボタンを押して、ゆっくりとイヤホンを取り外す。息をつく。日常が続く。静寂が心細く、また音楽に頼る。幽き笑顔を浮かべる人のことを想う。過ぎていった一日のことを無言で想う。気がつけば時間だけが経っている。
 日常を続けるために、重たい身体を起こして洗濯物をまずは回す。水場に立って、今朝がた水につけておいた食器を洗う。気が付くと手が止まっていて、何かを考えている。何もわからないのに考えている。明日の朝のために米を予約炊飯しておく。電気ポットで湯を沸かし、麦茶の用意をする。動作の一つ一つの合間に、何かを考えている。そのせいで遅々として進まない。何故こんなことをしているのだろう。どうせ汚れるものを洗う。どうせなくなるものを用意する。幾度満たしても腹は減る。そういう日常を続けている。生きている。何も終わりはしない。