<life>fool</life>

愚者の人生。

忘れません、死ぬまでは。

 あなたは記憶力が良いですね、とよく人に言われる。他人からの評価というものは往々にして自分自身の認識とはひどく食い違うものだが、これに関しては「ああ、確かに私は細かいことまでよく覚えているな」と思う。

 人は物事を次々に忘れていく生き物であろう。どんな歓びもどんな悲しみも忘れていくね。私はそれが寂しいのだ。それに、忘れるというのは、感じ方として盗まれるというようなことに近い。個人的な感じ方だけれど。私は欲が深いので、自分自身の歓びや悲しみを、このこころを掻き乱した凡そありとあらゆる出来事を、絶対に手放したくないのだ。往生際の悪さやしぶとさも、こういう強欲さに起因しているのだろうな。

 認識。私の敬愛するオスカー・ワイルドは、自身の藝術論の中で次のように語っていた。曰く、自然は藝術を模倣する。たとえば、美しい花などというものは無く、それを美しいと思う人の心から産み出された、花を主題にした藝術品を観ることによって、初めて人は花を美しいものだと知覚するようになるのだ、というようなこと。藝術至上主義者であるワイルドらしい物言いだけれど、私はこういう考え方にわりと賛同している。ひとっこ一人いないだだっ広い平原に美しい花が咲いていたからといって、それを観るものがいなければ、寂しいだけだ。

 人間が死に絶えた後には動物と植物が繁栄する理想郷が産まれるのだ、などということを妄想する人は多いが、死に絶えているはずなのになぜか自分だけはそれを観測できると思っている辺りが鼻白んでしまうね。

 藝術を至上に思うということは即ち、人間を至上に思うということだ。私は歌も歌えず絵も書けず、何かを産み出すことなど未だに出来ないし、このところ自分の「何もしてなさ」具合に恐怖すら感じているのだが、それでも物事を忘れないでいようと、忘却という機能を相手にして、必死になって訳も分からず抗っている。美しさを称揚して生きるのだ。