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<life>fool</life>

愚者の人生。

新大久保や鶴橋で何が起きているのかについて、知らない人に向けて。

 このところtwitterやここの記事でも頻繁に話題にしているレイシズム・ヘイトスピーチについての出来事について、「行動する保守」でも「カウンター」でもどちらでもない人々に対する説明と、自分が調べたことの整理を兼ねて記事にしようと思います。僕個人としては「行動する保守」の方々には一ミリたりとも理は無い、との結論に至っているのでそこのところはご了承された上で読んで頂ければ幸いです。その上で誤謬、不味い記述などございましたら連絡頂ければその都度対応はさせて頂きます。
 今回の問題は、新大久保を始めとした各地で「行動する保守」と言われる市民団体が政治デモを行ったことに端を発します。新大久保駅の周辺は『コリアンタウン』と呼ばれており、在日コリアンが多く暮らす街です。のみならず、昨今の韓流ブームの影響でK-POPを愛する若者たち向けの店舗の店も多く、週末の新大久保は非常に賑わいのある街となっています。「行動する保守」団体は、この街の週末に狙いを定めて、在日コリアンが経営する飲食店や韓流ショップの多い大久保通りの道路をルートに入れた上でデモを何度も行っていたようです。

 デモ自体は申請・許可を得た上で行われるものであり、ここに違法性はありません。そもそも政治デモの行使とは、それ自体が市民に与えられた権利であり、何びともこれを妨げることはできません。にも関わらず、2月頃から彼ら「行動する保守」団体のデモに対して市民が中止を求める声を上げ始めました。それは何故か。彼らのデモが多分に差別的・排害排外的であるとされたからです。(誤変換です。すいません)

 「行動する保守」団体のデモが政治デモの領域を越えたものであり、単なる民族差別・排外主義者の集まりに過ぎないと、最初にカウンター活動を始めたのは「レイシストをしばき隊」だと認識しています。これまでも個別にそういう声はあったようですが、どれもデモを止めるまでには至らず、それならばと団体として現れたのが「レイシストをしばき隊」でした。そしてそれに呼応するように「プラカ隊」と呼ばれる人々がプラカードを掲げながら新大久保の街で「行動する保守」のデモに対峙し始めました。

 「行動する保守」団体にもいくつかあるのですが、よく名前が挙がるのは「在日特権を許さない市民の会」です。彼らは略称で在特会と呼ばれ、現在日本に居住する在日コリアンたちが日本人に較べて他の在日外国人に較べて明らかに特権を所持している*1、ということを主張の根幹に据えて在日コリアンの糾弾を目的として組織された団体です。(更に訂正。脚注をご参照下さい)
 会長である桜井誠氏を始めとして、彼ら在特会やその他「行動する保守」団体の会員は街頭での過激な言動で知られており、すでに幹部・会員の者が幾つかの刑事責任を問われたケースも存在しています。また彼らの特徴として、インターネット上での支持者が多いことやネット媒体を使った情報拡散能力に長けていることが挙げられます。動画サイトへの投稿、個人配信、2ちゃんねるなど匿名掲示板への書き込みや、それらをまとめたサイトを通して活動し、ソース不明の情報を自らの主義主張とする様を「ネット右翼」「嫌韓厨」と蔑称で呼ぶ声もありましたが、問題としてはっきり受け止める人間は少なかったのが実情のように思います。


 カウンター側はまず「レイシストをしばき隊」です。「行動する保守」団体は、デモ開始前や終了後、参加者数人で新大久保の商店街に繰り出し差別的な言動をする行為を続けていたようです。彼らはこれを「お散歩」と称していました。野間易通氏は、まずはこれを止めさせようと「レイシストをしばき隊」を結成するに至ったと説明しています。

しばき隊という名前ですが、しばきたいだけです。実際にはあくまで非暴力でお願いします。したがって武器等の携行もご遠慮ください。(野間氏tumblrより引用)

 名前が示すように暴力的・威圧的なイメージを用いながらもあくまで非暴力で「行動する保守」団体の「お散歩」に対峙し始めたのが「しばき隊」の始まりです。そして実際に「お散歩」を止めさせることに成功しています。

 「プラカ隊」の発案者は木野トシキ氏。こちらはデモに沿道から対峙し、プラカードを掲げて反対の意志を表明する活動です。同時に新大久保に住む在日コリアンの人々に対して、デモ隊の主張は日本人の総意では無く、反発を覚えている者が居ることを伝える手段にもなっていると思います。

 その他にもカウンター側には様々な団体が参加しているようですが、正直なところすべてを把握しきれていませんしする必要も感じません。というのも、カウンターアクションに集まっている人々が抱いている思いはひとえに「レイシズムに反対する」ということだからです。右派います、左派もいます、K-POP派の人もいます、僕は所謂ノンポリでしたし、パンクスもいます。一人で静岡からカウンターのためにやってきた高校生もいました。日本人もいれば在日コリアンもいます。様々な(ときには相反するような)主義主張を抱えながらも「あれは止めさせなければ」という自己意志の基に集っています。実際僕もカウンターに参加しているとき、誰かに主導されたり指示されたりと言ったようなことは全くありませんでした。だからこそ僕はこの問題に執心しているとも言えます。

 
 ここまでかしこまった口調で長々と書いてきましたが、要は「差別やめろやコラ」って言ってるカウンターの人たちと「これは差別ではない!政治的なデモである!」とか言ってる「行動する保守」って感じです。「行動する保守」の主張が政治的な思想であるかどうかは個々人の判断に任せますが、僕は全くそうではないと思っているし、そもそもそれが政治的であるからと言って差別をして良い理由には全くならないのです。人種に基づく差別というものを何故人類は撤廃しようとしてきたか、それを考えれば自明のことです。「行動する保守」団体が差別的である限り、彼らに理は無いと考えます。
 意識を変えるにはそれなりに時間が必要です。人間が差別意識から解放される日がいつ来るかは解りませんし、おそらく俺が死んだ後くらいじゃないのかなくらいに思ってはいます。けれども、だからと言って目の前で行われることを傍観して良いのか、これはただそういう問題なのです。

 
大阪最大のコリアタウン鶴橋で大虐殺予告(女子中学生) - YouTube
 これは政治的なデモですか。


【在特会】新大久保お散歩【11月11日】 - YouTube
 これを止めようとすることは間違いですか。

 カウンターアクションの参加者について、特にしばき隊やパンクスや右翼の方に対して批判的な言説があります。
「カウンターをしている方も怒声を上げたり中指を立てたりして見苦しい」
「刺青を見せつけて威圧している。ヤクザのようだ」
「どっちもどっちだ」
 僕はそうは思わない。彼らは目の前のデモ参加者に怒っているだけです。その怒りは批判に晒されるべきものなのですか。その前に批判するべきものがあったんじゃないでしょうか。それを無視して、彼らにとっての意志の表明のやり方を批判することがそんなに大切なのですか。お行儀の良さがそんなに大切なのですか。むしろ彼らが街に立たなければいけないところまで問題を放置していた我々こそが、最も反省するべき者なのではないのでしょうか。

 このカウンターアクションは2月から始まりました。しばき隊は「お散歩」の抑止に成功しました。厳然たる事実です。しばき隊のように直接対峙できなくても、プラカ隊が静かに沿道に立つ姿を見て、それならばと人はどんどん集まりました。これも事実です。6/30のカウンターには、1000人からの人々が集まり、ある人は声を上げ、またある人は静かにプラカを掲げ、思い思いの姿で反対・中止を求める意志を表明しました。

 2月から始まった「行動する保守」へのカウンターアクションは、これからも続くでしょう。続けなければいけないと思います。7/7の新大久保デモは延期となりましたが、これから先また「行動する保守」がどこで何をしでかすかは解りません。また(これは今回の問題において自分が一番気になっているところでもありますが)欧州などにならい、差別的な言動を明確に法として規制するのか否かというところも考え続けなければいけない問題だと思います。今のところは初めに書いたようにデモ自体を止める術はありません。カウンターアクションを続けて彼らが自主的にデモを止めるのに期待するか、法規制か。その二択しか残されていないのか。それとも第三の道があるのか。何れにせよそれを決断するのは、私でありあなたでしかあり得ないと僕は思います。

 社会の在り方を模索し決断していくのは我々です。ルールは常に作られ、作り変えられるものです。誰かが作りだして、それを我々に押し付けるのではないのです。だからこそ、現状の法で許されている彼ら「行動する保守」のデモを「許さない」と言うことは我々にしかできないことなのではないでしょうか。

 最後になりますが、元々アクセスの少ないこのblog、読んでくださっている方は僕の知り合いが多いと思います。そういう人は音楽や映画、きっと好きですよね。
 僕は問いたいです。あなたの好きな音楽や映画、小説はなんと言ってますか?あなたを喜ばせ、あなたを楽しませ、あなたを踊らせ、あなたを救ってくれた藝術たちはあなたに何を教え、伝えてくれましたか?僕はそれを考えたから、カウンターアクションをしているのです。

*1:在特会公式HPでは「他の外国人と較べて」という記述が見られますが、実際には日本人と較べる形の言説もしばしば用いられている印象です