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<life>fool</life>

愚者の人生。

書くことについての話。

 今回もまたすごく個人的なことを書きます。

 自分がこうやってインターネットの片隅で物語にもならない情動を書き殴ることが何かになるとは思っていない。表現行為だとも思えないし、ほとんど無駄だとすら思う。近頃は読んだ人が嫌な気になるようなことに関してはなるべく手帳に書き綴るということをやっているけれど、それ以外のことは基本的にここだったりtwitterに結構アレな勢いでダーっと書いてしまって、その度になんつうか鼻白む人もいるんだろうなあとか考えたりするんだけど、やっぱり止めることはできない。それにはいくつか理由があって、それを書こうと思う。

 小さなころから人の書いたものを読むのが好きで、小説はもちろん新聞や雑誌、果ては広告に至るまで、とにかく文字の書いてあるものは俺にとって遊び道具のようなものだった。そんな自分がwebの世界を知ったのは小学生くらいのころだったろうか。整形された言葉ではない人々の生の声の集まり、掲示板だったりチャットだったり個人サイトだったり、それはもう宝の山のようで、俺は殆ど狂喜していた気がする。

 そんな中で、特に俺の興味を引いたのは独白めいたテキストだった。誰に贈るでもなく、好かれるためにでも嫌われるためでもなく、ただありのままの自分の気持ちを言葉にしているもの。そういうものだけが本物の気持ちであるような気がした。

 その頃は特段意識している訳でも無かったが、昔から今に至るまで俺はコミュニケーションというものをほとんど信用していないのだなと思う。どんなに会話を交わしたところで、相手が本当には何を考えているのかなど解らない。概ねこうだろうと予測することはできるけれど、結局それは問うだけ無駄な問題のようなもので、答えの無い永遠の謎なのだ。完璧に解り合うなどということはただの幻想にすぎない。

 とは言え、解り合おうとする行為が無駄だとも思えないのだ。人は孤独では生きていられない生き物だし、何時まで経っても誰かと繋がり合おうとする。だから、繋がり合いたい気持ちが様々な行動を人間に取らせる。俺とて例外では無い。俺にとって一番好ましいのがこのような形式なのだ。
 独白のようなテキスト。誰に読ませる訳でもなく、物語の形を取るでもなく、でも誰かが読むかもしれないもの。そこには奥ゆかしさと羞恥がある。自分への疑いがあり、けれどもそれでも吐き出さずにはいられない逡巡がある。臆病でありながら力強く、飾り気の無い美しい言葉がある。そういうものに真実を感じる。相互理解の幻想に中指を立てて、しかし何処か諦めを捨て切れずに言葉を綴る行為を、或いは惨めで汚らしいことだと忌避する向きもあろうが、俺にとってはその行為は何よりも勇敢で壮烈な生きる意志の発露だ。諦めへの拒絶だ。惨めで汚らしいことなど解っているよ。

 俺が好むものには全てそういう性質がある。小説にも、音楽にも、映画にも。そしてweb上を揺蕩う数多のテキストにも。昔から今に至るまで、ずっと俺はそういうものに生かされてきた。生まれついての懐疑屋にとって、少しでも信じられるものがあることがどれだけ救いになることか。

 昔、俺がよく覗いていたサイトがあった。小説家を目指す人のサイトだった。そこにはその人が書いた小説と日記があって、日記は毎日のように更新されていた。「小説が書けない」とうわ言のように綴られ、まるでその代替のように書かれた膨大な言葉たちはときに呪詛のようでもあったが、その意志の発露は間違いなく俺を救ってくれた。そういう風に生きる人がいることそれ自体が希望だった。だからそのように俺もやる。それだけのことだ。同じように誰かの希望になりたいとか、誰かを救いたいなどとは思わんし、なれるとも思ってはいないが、何のことはない。あの人もそういう風には思っていなかったことだろう。

 また別の話だが、尊敬する坂口恭平という男がいる。自殺志願者や、それでなくても話を聞いて貰いたい人の電話を個人的に受け付けるといった行動をしていた。しかし、あるときパタっとそういうことを止めた。コミュニケーションは人間に必要不可欠なものだが、本来的にはそれはとても難しいものなのだ。彼がそれをやめたことは、彼に寄り掛かることをしていた人にとっては裏切りのように映ったかもしれないが、何かに寄り掛かる限り人は幸せにはなれない。寂しさは埋まらない。だから、俺にとってはとても納得できる選択だった。
 彼は今個人サイトで「坂口恭平日記」を綴っている。読むととても勇気が湧く。それだけで良いのだ。直接的な接触など、そのときその場にいる人とすればいい。彼と直接話したことがなくったって「死にたくなったらものを創れ」と綴られたその言葉はきっと誰かを救うだろう。だがその言葉は誰に向けられたものでもない。

 こんなことは無意味だ、と言う言葉のせいで死んでしまうことはたくさんある。だが、誰かが受け取る可能性がある限り、意味を決めるのは自分ではない。俺のこの行為は無意味で無駄だが、それだからこそいいのだ。だいたい、どれだけ無意味を貫こうとしても、そこには意味が生じてしまうものだ。それが人間の怖ろしくも美しいところであると俺は信じているよ。