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<life>fool</life>

愚者の人生。

『デビルズ・リジェクト』

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~あらすじ~
キチガイ殺人鬼一家、逃げる。

 死ぬほど良い映画だった。2005年公開当時に映画館で観られなかったことを恥じる。とりあえず観て下さい。TSUTAYAに走れ。以上。
 つったっておめーらはどうせやっぱスプラッタ映画だしとかそういう下らんつまらん愚にもつかん色眼鏡でスルーするんだろうな。Fuck you!!

 ジャンルに囚われることほど愚かなことは無い、それは映画だけでなく。良い物はなんだって良いのだ。この『デビルズ・リジェクト』は間違いなく傑作である。
 そもそもこの映画はスプラッタ映画ではない。というよりは、様々なジャンル要素を内包していると言った方が良いだろうか。ホラーでもあり、ロードムービーでもあり、スプラッタでもあり、コメディでもあり、サスペンスでもあり、復讐劇でもあり、アメリカンニューシネマでもある。監督であるロブ・ゾンビの多種多様な映画への尊敬と愛は、間違いなく傑作を生み出した。これこそベケット言うところの「古きネジの新しき回転」である。人は死ぬ、だが映画は死なない。

 この映画はロブ・ゾンビの監督第一作である『マーダーライドショー』の続編である。だが、監督本人が「続編であり続編ではない」と言っているように、これ単体で観ても全く問題ない作りになっている。主要キャラの設定と、今作のストーリーの発端となった事件を引き継いで、前作とは全く毛色の違う映画に仕立て上げたロブ・ゾンビの手腕に拍手を送っても送り足りない思いだ。(今更おせえよって言われそうだけど) ちなみに僕は一応『マーダーライドショー』と『デビルズ・リジェクト』続けて鑑賞した。一作目は面白い映画ではあるけれど、取り立てて「誰もが観るべき!」と鼻息荒く喧伝するほどの物ではない、と思う。正しく僕みたいなジャンル映画愛好家が片隅でひっそりとニヤニヤゲラゲラ笑いながら観るのがベストってくらいの映画だった(ある1シーンを除いて*1) それに対して今作『デビルズ・リジェクト』は、はっきりと鼻息荒く喧伝すべき映画だ、と思った。3回観て思ったから、それによって俺の良識が疑われようがそんなもんは知るか、である。

 それは何故か。個人的な趣味嗜好を越えて、この映画が放つメッセージにひどく胸を打たれてしまったからだ。前述のとおり、今作はジャンルの垣根を越えてあらゆる顔を見せる。その中の「復讐劇」と「アメリカンニューシネマ」の要素が素晴らしいのである。

 シリーズの主人公であるファイアフライ一味は、キチガイの殺人鬼一家だ。彼らは前作では徹底して嬲る者であり、獲物を狩る者であり、追う者だった。今作ではそれが逆転する。映画は、彼らの住処が突如襲撃されるところから始まる。大量のパトカーと保安官に包囲されるファイアフライ一家。スピーカーを用いて彼らに呼びかける険しい顔のワイデル保安官は、前作で一家の母であるマザー・ファイアフライに惨殺された男の弟だ。物語は、追うワイデル保安官と、逃げるファイアフライ一家の対比によって転がっていく。

 ワイデル保安官は追う者だ。復讐という大義がある。だというのに彼はどんどん精神的に追い詰められていく。襲撃によって一人逮捕されてしまったマザー・ファイアフライとの尋問のせいかもしれない。人智を超える悪党に当てられてしまったのかもしれない。あるいは、自分や自分の家族が何よりも素晴らしいものと定義し尽くしてきた法によって、望みである復讐が阻まれているという矛盾にぶち当たったからかもしれない。兄を殺したマザーが目の前で自分や兄を愚弄しているのに、直接手を下すことも出来ないのだ。
 「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」というニーチェの警句とおりに、ワイデル保安官は憔悴し均衡を崩していく。まるで『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロのように、鏡の中の自分に向ってうわ言を呟く。そのうち彼は、自らを神の執行者と定義することにより自己を正当化するに至る。神の名の下において、彼は法を破る。

 対してのファイアフライ一家、こちらは追われる者でありながら悲壮感は無い。至って平常運転である。仲良く喧嘩しながら逃避行だ。もちろんそこはキチガイ殺人狂の平常運転、途中寄ったモーテルで意味も無く人を襲ったりしているのだが。
 モーテル襲撃の後、家族3人が仲良くアイスを食べるだの食べないだのでケンカしている姿に、観ている側は混乱させられる。人の絆、家族愛、そういった人間的な感情を彼らは持っているのだ。映画において殺人鬼というのは基本的に非人間的なものとして扱われる。人を超越したものであるからこそ、自分とは全く異質なモノであるからこそ、観客は安心して殺人鬼を恐怖することができる。しかしファイアフライ一家は違う。彼らは人間だ。残酷で、非道徳的で、忌まわしいクソ野郎共だが、それでも尚人間なのだ。ただ違うのは、彼らが人を殺すということだけ。ただの違いだが、致命的な違いだ。人を殺すものは、この社会では生きて行けない。彼らは悪である。

 この両者の対比が最も明確になるシークエンスの辺りから、観るものは自分が何に肩入れしているのか解らなくなる。
 ワイデル保安官はもはや狂気に堕ちた。冷徹な復讐者などという格好良いヒーローではない。
 ファイアフライ一家はよく笑う。怒る。感情の発露が人間的だ。そこに暖かみさえ感じるかもしれない。だが忘れられない、モーテルでの凶行を。彼らは殺人鬼なのだ。

 善悪とは何なのだろう。人は人を裁くことが出来るのだろうか。神という免罪符を片手に逸脱していくワイデル保安官と、悪魔を自称し「悪魔の仕事をする」と嘯くオーティスと、何の違いがあるのか。道徳とは。倫理とは。物語は終幕に向けて加速する。復讐劇から、アメリカンニューシネマへ。

 ラストシーンについてはネタバレを避けるために直接的な言及はしないが、とにかく素晴らしいので是非実際に作品を観て感じて欲しい。残酷な映画ではあるけれど、直接的な表現は控えめだし、怖れることは無い。それにこれらは全て創り物なのだから。
 この映画のラストシーンで俺は泣いた。この涙こそが、創り物だけが生み出せる奇跡であると俺は思う。物語の中でなら、絶対に容認できないものにさえ心を寄せることができるのだ。やっぱり冷静に考えて、ファイアフライ一家に心を寄せることなんて間違ってると思うのに、映画の力がそれをひととき許してくれる。それはただのペテンだが、素晴らしく価値的なペテンである。何故ならば、既存の概念を破壊し再構築することこそ藝術の本懐の1つだと思うからだ。『デビルズ・リジェクト』は藝術的な映画だと俺は言うことが出来る。あなたが映画を好きだというのなら、是非怖がらずに、色眼鏡をかけずに作品を手にとって観て欲しいと願うよ。(ついでに言うと1作目『マーダーライドショー』も徹頭徹尾アホな映画で面白いし、キャラクターへの感情という意味では続けて観た方がよりなんつうかグッと来る気はするのでまあ時間のある人は1、2続けてどうぞ。そこまではなあ…って人は2だけでも全然問題無し!ちなみに俺は落ち込んでた心が『マーダーライドショー』のおかげで上向きになったぞ!我ながらアホくせえ!)

 



 ここからは余談及び完全なる趣味の世界です
・『バニシングポイント』にしろ『明日へ向って撃て』にしろ、反体制の一言では片付けられんなあと今作を観て思った。体制批判という面よりもむしろ、思いのままに生きることの難しさを教えてくれる。コワルスキやキッドやブッチやファイアフライ一家の場合はたまたま、それを阻むのが体制だったというだけだ。壁は色んな形をとって我々の目の前に現れる。その壁をやり過ごす道を選ぶか、諦める道を選ぶか、砕こうとする道を選ぶか。自由意志の話なのだなあ。砕こうとすれば、砕き返されることもあるってだけで。

・ベイビー・ファイアフライちゃんは俺の嫁、と言いたいが監督ロブ・ゾンビの嫁なのであった。羨ましすぎる。

ロブ・ゾンビはもともとバンドマンなんだけど、多分バンドやるより映画撮ってたほうが良いくらい素晴らしい監督だと思う。

・テンパったら「Fuck!Shit!Fuck!Shit!」

・「Chinese, Japanese, Dirty knees, Look at these!」

・ライターのシーンのベイビーちゃん超かっこいい。

・つーか役者が素晴らしすぎる。

・兄弟の店着いてからのオーティスのファックポーズ、無理してる感アリアリでかわいい。

・タイニーすき。

・一家で一番普通な人だったのはもしかしたらオーティスなのではないだろうかと思っている。公式設定によるとオーティスはファイアフライ一家と血縁関係は無いのだ。*2 オーティス以外のファイアフライ一家はマジでナチュラルなキチガイだが、オーティスだけはキチガイになろうとしているフシがある。オーティス=悪魔のなり損ない 保安官=神のなり損ないという対比が効いているような…。ベイビーもスポールディングも悪魔じゃなくってただの殺人嗜好な人だものなあ。

・「Fuck you!」「Fuck you!」の応酬、やりたい。

 

*1:オーティスが若い保安官を撃ち殺す俯瞰シーン。あれはすごく良い

*2:こちらに詳しく記述がある。英wikipediaでも確認