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<life>fool</life>

愚者の人生。

家の窓と斜め後ろのあいつと世界についての話

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 iPhoneで撮った家の窓からの景色。いちばん綺麗に撮れたと思う。



 良く晴れた日は良い。運良く午前中に目覚められたりすればそれはもう最高と云っても良いだろう。窓開け放して洗濯物を洗濯機に放り込む。洗剤を入れる。洗濯機のスイッチをオンにする。ピッと音がして洗濯槽がぐるぐる回り始める。それを眺めるのがたまらなく好きだ。「洗濯機の銀河の中」というとてつもなく素晴らしく愛おしい歌詞があって、僕はこの曲を聴いてから洗濯をするのがとても好きになった。THE BACK HORNというバンドの「初めての呼吸で」という曲だ。歌というのはそういうものだと思う。

 ぐるぐると回る洗濯物をしばらく見つめてから、ベッドに寝転がる。読みかけの本を開いてハイライトに火をつけて、ゆっくりと文字を追う。夢中になって灰を落とさないように、風や陽光を感じながら読む。ときどき顔を上げては、景色を眺め、耳をそばだてる。山手通りの方から車の走る音がする。サイレンが聴こえる。都会のさして広くもないこの部屋の、更に小さなベランダの、その一角に置かれた洗濯機の槽の中で洗濯物がぐるぐる回っている。小さな生活のぐるぐると世界のぐるぐるが重なり合う瞬間に気づいて、少し楽しくなる。
 そのうちにピーピーと洗濯機が悲鳴を上げる。うちの洗濯機はもうぼろぼろだ。一回で脱水が出来た試しが無い。たいていは、晩夏の道端で僕たちを驚かせるセミ爆弾のように、体を滅茶苦茶に振るわせてはピーピー言い出すのだ。飲み物が切れたので買ってくる。コーラを買ってきた。
 「元気が無いときはコーラ飲むと元気になれる」
 と昔友人が言っていて、なるほどそうなのかと思って真似してみたら確かに元気が出た気がしたのでコーラは好きだ。プラシーボ効果というやつだ。思い込みは危険だが、扱いようによっては生活を楽にしてくれる。しかしコーラというものの味は、何かに喩えようと思っても全然上手くいかないね。コーラの味としか書けない。偉大なことだと思う。

 ピーピーとうるさい洗濯機をなだめるように蓋を開けて手を突っ込み、一度二度ほぐしてからまた蓋を閉める。たいていはこれで大丈夫なのだけど、洗濯物を溜めてしまって量が多いときなどはしばらくしてまたピーピー言い出すので、しばらくは使命を全うしようと必死に頑張る洗濯槽を見守らなくてはいけない。生きている世界もこんな風に、時々でいいから見えざる神の手のようなものが突っ込んできてくれたら良いのにな、と夢想する。アダム・スミスは市場原理に於いて「神の見えざる手」という言葉を使っていたような気がするが、僕の言いたいのは勿論そういうことじゃない。そしてあくまでも夢想は夢想であり、現実にそんなものが存在しないこともとうの昔に気づいていて、それで落ち込んだり何やったって上手くいかねえなどと嘆き悲しむことに全く何の意味も無いってことも分かっている。今生きているこの時この自分が手を動かさなければ何も変わりゃしませんよ。だから僕は家の窓から見える小さな狭っこい空が好きだ。東京の街が好きだと思うようになったのもそういうことだ。

 山口県下関市の片田舎に育った僕は、あの街を出たい一心で真面目に受験勉強に励み、そして大学に合格した。憧れの東京に胸を弾ませながら新幹線を使って降り立った八王子の街は、福岡県北九州市小倉北区よりもしょぼくれていた。下関→小倉、所要時間片道約15分、運賃片道270円。下関→八王子、所要時間片道6時間、運賃片道20280円。立川でやっと北区と同じ程度と考えるとどうだろう。八王子→立川、所要時間片道約11分、運賃片道160円。何も変わらない。街が僕を変えてくれると思っていた。でも違った。
 それでも最初の頃は、片道40分くらいかかるとはいえ23区内に行けば見たこと無いもの聞いたこと無いものに沢山出会えることだろうと無理やり自分に言い聞かせていたのだが、結局大学が山ん中にあったり学内の軽音楽部に夢中になったりなんだりで、在学中は片手で数えるくらいしか都心に行くことは無かった。繰り返して言う。何も変わらなかった。場所ではなかった。

 在学できる限界まで在学しておいた挙句大学を中退して、あてど無くぼんやりとこの街に移り住んで、しばらくの間ずっと引きこもっていた。正確には外に出たりもしていたけど、それらは全て同じ目的のためであって、精神的には引きこもりと変わらない。実際、そのうちにそれすら嫌になって本当に家から出ない生活を続けた。これまた住むところと同じようにぼんやりと、何でもない自分になってみようと思った。肩書きもなにもない、ただの自分になってみようと思った。昼夜は逆転し部屋は荒れ果てペットボトルが散乱し煙草の灰で床は真白く、そんな中で気がついたら日がな一日音楽を聴き映画を漁り本を読んでいた。大学4年で軽音楽部の活動を終えてから、そういうものに触れるのは本当に久しぶりだった。自分にはもう関係が無い、これ以上広げることもない、それでいいと思っていたものだったのに。
 渋谷のGEOに通い始めた。気になっていたけれど、先送りにしたままになっていたものを改めて見聴きした。
 『SRサイタマノラッパー』を観た。痺れた。この映画の情報が知りたくて色々調べてみたら、「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」というラジオ番組内の「シネマハスラー」というコーナーに行き着いた。MCの宇多丸さんはラッパーだが映画にも造詣が深いらしく、生き生きと話をしていた。なんだかそれがとても良いなあと思った。『SRサイタマノラッパー』の映画評は、まさに自分が感じたようなことを的確に表現してくれていて、ウンウンと頷きながら楽しく聴かせてもらった。そのうちに今度は町山智浩さんという映画評論家を知った。痛快な人だったし情熱を感じて、これまた良いなあと思ったものだった。
 『SRサイタマノラッパー2 傷だらけのライム』を観た。『桐島、部活やめるってよ』を観た。『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を観た時、不意に涙が止まらなくなってしまった。子どもみたいにわんわんと泣いた。映画を観て泣く時というと、往々にしてその予兆を感じるものだ。ああ、哀しいよやめてくれああん、とか、もうすぐ上手くいくね!もうすぐ願いが叶うね!ああ!よかったね!という感じで。でもこの時は、本当に訳が分からなかった。気がついたら吐きそうなくらいになっていた。少し怖かった。
 昔から僕は、時々自分が本当に非人間的だよなあと思ってしまうことがあった。無感動だし、冷たい人間だと。僕の頭の斜め後ろには、いつも余計なことを言ってくるもう一人の自分がいて、そいつは僕が楽しいことをしてる時、不意に耳元で
 「どうせ本当は楽しいと思ってないだろ」
 と囁いてくる。
 僕が哀しいとき、腹が立つとき、うれしい時、そいつは僕の耳元で
 「どうせ本当はそんなに哀しくもないんだろ」
 「どうせ本当はそんなに怒ってないんだろ」
 「どうせ本当はそんなに嬉しくもないんだろ」
 と囁いてくるのだ。まさに感情が沸き立つその瞬間に、同じタイミングで。

 そんな斜め後ろの自分が絶句していた。予兆無く流れた涙と、胸の昂ぶりだけが後に残っていた。それ以来、僕は素直に喜び、素直に楽しみ、素直に哀しめるようになれた気がする。怒ることは殆ど無くなった。哀しいことは山ほどあるけど。
 黙らせたくても黙らせたくても黙ってくれなかった斜め後ろの自分は、何か口を挟みたそうにじとりとこちらを見つめてくるだけになった。それで僕はなんだかすごく楽になってしまったのだった。

 僕の住んでいるところは、歩いて10分もせずに図書館に行ける場所にある。20分も歩けばたくさんの映画館がある。ライブハウスだってある。素敵なものが本当にたくさんある。毎日毎日どこかで誰かが書いたり歌ったり踊ったり演じたりしている。それは本当は奇跡的なことなのだ。鈍感な僕は山口でそのことに気づけなかった。小倉や、八王子や、立川でも。けれどようやくここ、今この場所で気づけて本当に良かったと思う。それだけじゃない。東京には多くの人が生きている。
 僕は人が創るものが好きで、藝術なんていうと少しこっ恥ずかしいけれど、でも言おう。藝術が好きだ。そして藝術は、イコール人なのだ。思い返せば僕はずっとずっと昔から、人が好きだと言い続けていたようなものだ。斜め後ろの自分の声にいつでも嘲笑されながら、時には諦めながら、斜に構えながら、でも結局は人なのだ。人の愛を、憎しみを、喜びを、哀しみを、純化して世界に具現する力が藝術にはあった。
 物語や音楽が僕の体に染みこみ、心をかき乱して去って行く。閉じる物語にさよならを言って、眼前にあるのは狭く小さなこの家だ。それでいい。それだからこそ、藝術は絵空事ではないのだ。空想と現実などという二元論に意味は無い。そう言うことができる。それが僕にとっての、個人的で慎ましいが何よりも壮烈な最初の勝利宣言だ。
 斜め後ろのあいつは黙っているが、そのうちまた余計なことを呟いてくることもあるかも知れない。だが、今なら嘲笑で返すことができるだろう。それが分かっているから、黙っているのかも。
 

 場所が自分を変えてくれると思っていた。神の見えざる手を欲した。けれどそんなことは無くて、いつでも今、ここにいる、この自分が自らをぐちゃぐちゃにかき回すしかない。求めているものをただ愚鈍に求めるしかない。ちっともかっこよくないし、疲れるけど。
 僕の家の窓から見える景色は狭っこいし、ビルに邪魔されて空はいつでも小さいが、それでも尚そこに美しさを感じることはできる。詰まらないものなんて本当は無い。全て鏡のようにただそこにあるだけだ。自分と世界は常に共鳴している。常に共に回っている。洗濯機のぐるぐると、世界のぐるぐるは、同じだ。