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愚者の人生。

3/31 新大久保 ヘイトスピーチへの意思表明

 今回は映画の話では無いです。ついでに言うと好きなものの話でもない。

 新大久保に行って来ました。

 2月17日に行われた反韓デモの存在を知り映像を観てから今日に至るまで、何をしていてもそのことが頭をちらついてどうにもよろしくなかった。自分の今を顧みて、もっと他にすることはあるだろうと思いながらも、知ってしまった以上考えることを辞められませんでした。ので、行って来ました。それを知り、それについて考えたとき感じた思いを、発信しなければいけないと強く思ったからです。

 けれども時間がかかりました。怖かったからです。現実に起きている諸問題について意見を発信することは、それについての反駁を請け負うことに他ならないからです。このまま見過ごせば、それはモニタに映る映像の一つとしていずれ忘れ消えゆく。そうしたほうが良いのかもしれないと何度も思いました。何しろ僕の目の前にはモニタの向こうよりももっと近くに山積みの問題があるのだから。

 映画を観ました。その世界では僕の信じる正義や美が活き活きと輝いていました。映画だけじゃない、音楽も小説も、僕の信じる藝術のその全てが物言わずただそこで輝いていました。お前はどうするのだと、こちらに訴えかけることすらせずに、ただそこで。
 僕はそれを信じたいと思っています。愚かにも信じていきたいと思っています。であるならば、見過ごすことは許されない。そう思いました。僕の住む場所から新大久保までそう遠くはない。自分の身体で感じなければ、そう思って3月31日に新大久保で行われた反韓デモの様子を確認しに行きました。反韓側にもカウンター側にも、どちらにも立たずに、個人として。

 デモは想像していたものよりも幾分柔らかいものに変わっている印象を受けました。何しろ僕が見た2月のデモでは、おぞましい文言がプラカードにも書いていたし参加者の口からも吐き出されていたからです。今回のデモではそういったものは少しは控えられていたと思います。カウンター行動の結果なのでしょう。もっと酷いものを想像し、覚悟して向かいましたので少し安心しました。かと言ってあのデモ隊が正当なものだとは最後まで思えませんでしたが。

 やはり一度でも人種をネタに行き過ぎた表現をしてしまったらもうそれはアウトなんだと思うのです。僕自身韓国という国に対しては複雑な感情はあります。デモ隊の方々の主張の中には、領土問題や不法入国などへの訴えが見受けられました。義憤にかられて行動するのは良い。人間にはそれぞれ異なる思想信条があるのですから、それを統一しろとか考えるなと言うようなことはあってはならないです。差別だって完全に消えるものではないでしょう。でも、それを考えることと表明することには天と地の差があると僕は思います。正当な思想には正当な論拠が付随しなくてはならない。不法入国者をどうにかしたいから「駅前からハングルをなくせ」なんてプラカードを掲げる?それでどうにかなると思いますか?為したい正義が為されると?
 デモという行為は直接的効力を求めるものではなく、自らの意志や主張を表明することによって個々人に訴えかけるものだという認識をしているのですが、何も知らない人間があんなデモを見てどう思うでしょうか?

 我々は教育を受けてきた人間です。現代の高度な文明に生きる人間です。であるならば、どこまでも平和的な解決を目指すのが責務でしょう。僕はそう思います。それに加えて、どんなに正しいことを言っていてもその一言がくっつくだけで正当性が地に落ちる物というのは存在します。それが「差別的言動」です。差別的言動はもはや暴力と同義です。商店街の店員さんたちは顔をしかめていました。泣いている女の子もいました。過去どれだけの人間が人種差別を撤廃するために努力を続けてきたか。それが支持されてきたか。歴史を顧みれば容易に分かる事実です。そこを間違えてしまった以上、あのデモに正当性は無いと僕は考えます。デモとすら呼びたくないですね。ただの悪口の撒き散らしに過ぎません。

 翻ってカウンター側ですが、正直なことを言うとこちらに対しても僕は不快感を覚える瞬間というのはあったんですね。参加者の一部に攻撃的な方々が存在するように見受けられて。
 前述したように、平和的に解決するのが責務だと思っているその気持ちが、僕に不快感を抱かせたのだと思います。だけどもそれは僕自身の問題です。僕が不快だからどうのこうのという権利はありません。差別をする側と、差別に反対する側と、差別される側、3者のうちのどれでもない自分が得たこの気持ちというのは、自分の中でじっくりと噛み砕き消化するものでなくてはならないと思います。

 言葉というものの力は我々が思っているよりも強い。僕の感受性がまだまだなのかも知れませんが、現場で湧き上がる言葉の力というのは、映像で見るそれとは全く違います。ある種脅威的なものですらありました。けれどもそういう声を上げなければいけないような状況まで、差別主義者の増長を許したのは、知っていながら何もできなかった僕でありあなたです。カウンターの人々は声を上げ、差別行動を抑制した。その事実は厳然とそこにあります。僕はそう感じた。だから、安易などっちもどっち論を擁して煙に巻くことはできません。
 本当ならば、ヘイトデモが起きるようなことそれ自体があってはならないことなのです。それでも起こってしまった。起こしたのはデモをやっていた連中であり、また見てみぬふりを続ける我々でもある。だからそう、おそらくこの不快感は責任逃れのツケなのかも知れない。僕はそれを呑み込みます。考えることも止めませんし、安易な全肯定もしませんが、その上であの日あの場所に居たプラカード隊やしばき隊の方々を支持すると表明します。


 僕はどこにでもいる何ら社会的地位を持つ訳でも無いただの一人の男です。僕は何かを求めません。同調しろとも思いません。自分が完璧に正しいとも思っていません。なにしろそんな力は持っていませんので。けれどこの文章を書くことに、全く何の意味が無いとも思っていません。僕もまた僕を行動に導いてくれたものたちのように、ただここに言葉として記録しておくのみです。
 受け取ってくれたあなたが、何を考え何を考えず、何をして何をしないか、それはあなたの自由です。
 楽しい話でなくてごめんなさい。でも、楽しいことばかりではないのが世界なのです。