<life>fool</life>

愚者の人生。

『リリィ・シュシュのすべて』

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~あらすじ~
ある地方都市、中学2年生の雄一は、かつての親友だった星野やその仲間たちからイジメを受けるようになる。そんな彼の唯一の救いはカリスマ的女性シンガー、リリイ・シュシュの歌だけであり、そのファンサイトを運営する彼は、いつしかネット上でひとりの人物と心を通わしていくが…。

 映画好きの友人に「いいからとりあえず桐島観とけ」と半ば押し売りに近いプッシュをしてたら「リリィ・シュシュのすべてみたいな感じじゃなかったら観ます」と言われた。「おそらく全然違うと思う」と答えたんだけど、肝心の「リリィ・シュシュのすべて」を観たことが無かった。そういう訳で、押し売りまがいの行動をしている手前きちんと観てみなければなるまいと考えBlu-rayで鑑賞した。

 案の定全然違う映画であり、その上「桐島、部活やめるってよ」を観た時のような感慨を受けることもなかった。それでもところどころ目を引かれる部分もあり、全く退屈しなかった訳でもないのだが、観終わった後は笑いと失望と徒労感のみが残った。直感的に「これはエバーグリーンな作品ではないな」と思った。桐島とは真逆だ。

 観たのが3月14日、もう5日ほど経っているけれど、その間僕が「リリィ・シュシュのすべて」に感じた違和感、さらに踏み込んで言えば不快感と言ってもいい、そのような感情を抱いた理由は一体何なのだろうとずっと考えていた。この作品自体が公開当時の2001年という時代に咲いた徒花に過ぎないのではないかと思う反面、スクリーンで上映されていた時期に観たとして絶賛しただろうか?と考えるとそれはあり得ないとも思う。僕が映画に求めるものと、この作品が徹底的に噛み合わなかった、ということなのだろうか。

 前置きとして、僕は暗く陰惨な物語が好きだし安易なハッピーエンドは好まない。そして今作は一般的には「暗く」「陰惨」で「救いのない」物語だと評されている。なので、パッケージやあらすじ、そして方々のレビューを見聞きする限り好きな雰囲気の映画だなあと思っていた。だが実際はどうだろう、この映画は暗くもなく陰惨でもなければ救いが無いなんてものでもなかった。そもそも救われる対象がいないのだからハッピーエンドもアンハッピーエンドも無いのである。この「救われる対象」の不在こそがこの作品を認められない点だ。つまりは人間の不在だ。それは劇映画として登場人物を創り、そこに物語を生み出す以上絶対にやってはいけないことのように思うのだ。「14歳のリアル」と銘打っているのにも関わらず、そのリアルがどこにもないというのは許容できることではないだろう。

 イジメやレイプや援助交際、万引きなどの非行、そして人の死といった事柄は、どれひとつとってもそれだけで物語を一本生み出せるくらいの題材だ。にも関わらず、今作ではそれらの題材を定型的に作品の中に放り込み、登場人物はそれを体現する存在としてしか描かれていない。それでも放り込んだ題材全てを丁寧に扱う気があるのであれば、それはまぎれもない大傑作になっただろうが、今作では勿論そんな偉業は成し得ていない。

 例えば物語が始まってすぐ、少年グループが万引きをするシーンと、その後主人公である蓮見が一人で万引きをするシーン、どちらもずさんこの上ないやり方であるのに、前者は逃げおおせ後者は捕まる。この点だけでも圧倒的にこの作品にリアリティが欠けていることが分かるだろう。フィクションがどこまでいっても嘘の作り物である以上、その嘘の物語の中で「物語内リアリティ」を築き上げないと作品への没入感はどうあっても欠けてしまう。中には物語内リアリティすらも必要としない種別のお話もあるけれど、今作が扱おうとしているテーマはそれには当て嵌まらないと僕は思う。むしろ徹底的にそれを構築していかなければ、全てが陳腐になってしまうんじゃないだろうか。
 万引きだけではない、全ての描写が終始その触りだけを映し出し、根幹には触れようとしていない。蓮見が受けるイジメのシーンは全く緊張感が無く、いじめている側の演技は嘘っぽさに溢れ、いじめられている当の蓮見の表情も見えない。全てが徹底的に要素のサンプリングだ。

 言葉にならない辛さを抱えている人間が描写したいのなら、徹底的に言葉を排するべきだ。表情や仕草で心情を現すことができるのは劇映画の特権だ。けれどもそれをせずに、画面上にタイプされた文字を映し出す手法は最早脱力してしまう。タイトルになっている歌手「リリィ・シュシュ」は、主人公をはじめとしてさまざまな人物が愛聴し心酔する歌手として扱われているが、魅力が無い。これはダメだろう。その上ドビュッシーなんて一緒に使ってるもんだから否が応でも比較してしまい、その結果ますます記憶に残らない代物となっている。あるいはこの点に関しては、何かに心酔することでしか己を保てない若者、だが実のところその「何か」に価値はそれほどないのだ、という見せ方がしたかったのかもしれない。それにしたって思春期の若者をなめるなと言いたくなる。一番感性が瑞々しいときに、それこそ万引きしてでも手に入れたい、ひとときも離さず側に置いておきたいようなものであれば、それにはある種普遍的な価値が感じられるのが自然だろう。

 かねてより僕は、映画の登場人物の行動全てに感情移入する必要はない、と思っている。と言うより、創り手が人間或いは人間的な何かを描き出そうとしている以上、全ての行動に共感を覚えられなくても、ひとつのシーンやセリフ、行動が胸を打つことはままある。仮にそれが全く無かったとしても、そうなると鑑賞者は神の視点を有することができるだろう。それはそれで面白い鑑賞の形だ。共感できないことを理由に作品をつまらないと言うのはあまりに早計だ。
 けれども、今作のように徹底的に人間を排し、映画内リアリティを構築する努力もせず、何か一つへフォーカスすることもせず、ただただ非人間的な(非道という意味じゃないよ)行動しかしない登場人物たちを眺めていたところで、それは人形を眺めているのと何ら変わらない。人形遊びだよこんなのは。そこに痛みもなにもあったものじゃないだろう。

 美しいと評されている撮影技術も、2001年という時代を考えた上で僕には良い物には思えなかった。撮り方が一面的すぎるのだ。綺麗な畑の風景はいつまで経っても綺麗な畑のままで、光の指す教室はいつも光の指す教室だ。何も変わらない。SR2で物語中に映しだされた田舎と、その後スタッフロールで映された田舎を観ろよ、あっちのが数万倍綺麗だと僕は思うぞ。悪魔のいけにえのラストシーンのレザーフェイスを観ろ、古くざらついた画質でも綺麗なカットは撮れるんだってのが分かるよ。
 僕は映像作品を求めているのではない、映画を求めている。「リリィ・シュシュのすべて」は僕にとって映画ですらない。唐突に挟まれるカイトのシーンからの一連の流れ、美しいと評する意見もあるけれど、僕は爆笑しながら怒りすらこみ上げてきたぞ。凡そ今まで僕が観てきたものの中で、もっとも意味もなく愛もない死だよあんなの。ふざけているのかと本気で思った。

 一番納得がいかないのは、この作品に誠実さを感じないところだ。今作で描かれている苦しみのようなモノと同種の感情を抱いている子どもが居たとして、或いはかつてそういう感情に苦しんだ大人たちが居たとして、そういう普遍的な事柄を取り扱うのならば、責任を持つべきだろう。もっとキツく、苦しく、本当にそこにある物のように描写して、少しの希望も見せないならそれはそれでいいさ、徹底的にどん底に落とすべきなのにそれができていない。だとしたらそれはただの悪趣味な映像だ。細心の注意を払って扱われるべき事柄の数々を雰囲気作りの道具としてのみ利用する、そんな無神経さは受け入れ難い。結局、どこまで言っても「子どもはいきなり豹変して何をしでかすかわからない」という、2001年のあの頃ワイドショーで喚かれていたような下らない文言を反復しているだけだ。そんなもののために殺される登場人物の気持ちになってみろってんだ。

 メッセージは無い。伝えたいこともない。この作品を評しているものによく使われている文言だ。本当にそうだろうか?メッセージも持てず、伝えるべき何かも見つけられないけど、なんとなく、ではないのか。

 醜悪なものや目を背けたくなるような出来事が芸術の手にかかったとき、一種の神性や美しさを帯びることは多々ある。それは表現者の熱意の賜物だ。普段観たくないことを見せつけることによって、目を背けていてもどうしようもないのだと観客に叩きつけている作品は多い。そういう風に、誰もが無価値であるとか不快であると断じているものに価値を見出す行為は尊いと僕は思っている。だがそこから熱意を抜けば?それはただの悪趣味で品性下劣な代物でしかない。

 良かった点は一つだけだ。市川実和子がとてもとても美しかった。前から目を引く女優さんだとは思っていたけれど、こんなに綺麗だとは思わなかった。けれど今の僕には残念ながらそれ以上のものはこの映画から感じられなかった。
 冒頭にも書いたとおり、やっぱり時代の徒花でしかないんじゃないかなあ。