<life>fool</life>

愚者の人生。

さよならと、バイバイと、じゃあねと、またね。

 「さよなら」という言葉は苦手だ。「バイバイ」も良くない。「じゃあね」か「またね」だったらまだマシだが、それでもやはり別れは寂しいものだ。僕はとても出不精な人間なのだけど、その理由の一つは「またね」を言うのがつらいからだ。

 見送られるのは特に苦手だ。どうしても見送っている側の寂しさを考えてしまう。去って行く方も勿論寂しさはあるけれど、同時に次に出会う何かへの期待を持つことができる。それに対して見送る側はそこから動けない。寂しいだけだ。それを考えるとどうしても見送られることに躊躇を覚えるのだ。そんな風だから僕はいつも見送る側に居ようとしてしまう。
 「別離」というものは人間にとって乗り越えるべきものだ。絶対に必要だ。それが分かっているのに僕の見送り癖といったら、ある種偏執的ですらある。これから僕と出会う人はよく注意して見ているといい。よっぽど事情が無い限り、僕はその場において最後の一人になるまで動こうとしないはずだから。

 もう五ヶ月かそこら、一人でほとんど引きこもりみたいに色々なことを考えて、やっと最近そのステージを終える準備ができたような気がする。だからこれからは人と出会い話をしなければいけない。そのために僕はいい加減に人と出会う時に回避不可能な「別離」を受け入れるべきなのだ。電話に出れないのも、メールを返せないのも、ひっそりと挨拶もせずに姿を消してしまうのも、全部別れるのが怖いからだ。もうそんなことではいけない。

 見送るなら見送るで、見送られるなら見送られるで、どちらの孤独もきちんと受け入れなければ。などと思いつつ、去って行くよりはその背中を眺めている方に居たいという気持ちが消えないのは、これはやっぱりよくないのかなあなどと、クリープハイプの「欠伸」を聴きながら思うのでした。「じゃあね」と「またね」しか言いたくねえよー。

クリープハイプ「欠伸」