<life>fool</life>

愚者の人生。

『SR サイタマノラッパー』

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 この半径1mから。

 鑑賞してからだいぶ時間がかかってしまった。自分の中で大切になりすぎたあまり、言葉にするのが難しかった。この映画は三部作なのだけど、昨日の夜中、最終作である「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」を観終えて、ようやくキーボードを叩く気持ちになった。

 結論から言うと、俺はこの映画を、知り合いにもそうでない人にも、なるべく多くの人に観て欲しいと思った。本当ならば俺の文章など読んでいる暇があるなら、今すぐレンタルビデオ屋に走って「SR サイタマノラッパー」を手にとって欲しいくらいだ。とはいえ、自主制作であり邦画であり出てるのは無名俳優ばかりと、決して間口の広い作品とは言えないので、誰かの鑑賞意欲を沸き立たせられたら俺の勝ちくらいの気持ちで誠心誠意書くよ。三部作ひとつひとつ、順を追って書く。映画好きの人には「いまさらSRかよ」と思われるような気がしなくもないけれど、そうでない人もいるだろうから。本当に、観て欲しいんですよ。

~あらすじ~

 レコード屋もないサイタマ県の田舎街に暮らすヒップホップグループ“SHO-GUNG”のメンバーたちは、自分たちの曲でライブをすることを夢見ていた。そのメンバーで、仕事もないニートのラッパー、IKKUは夢のために行動に出るが、同級生の千夏が現われたことでメンバー間にすれ違いが起きてしまう。

 あらすじだけ読むと、HIPHOPを舞台装置にした何てことのない青春音楽映画のようだが、実際は違う。通常こういった音楽映画は、

  1. 目標(LIVE)を設定する
  2. 目標に向かうが挫折や障害が生まれる
  3. 挫折や障害を乗り越え目標を達成し、映画的なカタルシスをもって幕引き

 というのが基本構造。例を挙げると「オーケストラ!」「ソラニン」あたりだ。ところが今作にはこの構造が使われていない。より厳密に言うと、使われてはいるのだけれど、特殊であるというべきか。少なくとも例に挙げたような作品を観終わったときに受ける印象と、今作を観終わったときに受ける印象は、味わいが全く違う。「SR サイタマノラッパー」は、断言してしまうと成功する物語ではないのだ。

 成功する物語を観ている時、僕たち観客はどんな挫折や障害が登場人物に降りかかろうとも、ある種の安心感を抱いていられる。それらの障害は物語上「超えられる壁」であるからだ。乗り越えられなければ物語が成り立たないから、失敗することはありえない。だから僕たちは登場人物が「いかにして」その壁を登り切るのか、それだけに注目していられるし、興味を惹かれるし、その壁を乗り越えた先にある一つの輝かしい栄光を掴む姿を待ち望み、それを観て感動する。
 だけどそれはどこまでいっても登場人物の栄光でしかない。僕らはいわば、彼らの栄光のおこぼれをあずかっているに過ぎない。もちろんそれがダメだと言いたい訳じゃないよ。それは一つの素晴らしい物語体験だもの。ただ、大半の物語は僕たちが生きるこの地平と地続きにはなっていない。

 今作の主人公であるIKKUは一言で言うとダサい。相棒のTOMもダサい。後輩のMIGHTYはバカだし、彼らの属するグループである「SHO-GUNG」ってネーミングセンスもちょっとどうかしてると思う。IKKUやTOMの先輩であるKENやTECはよくいる田舎のチンピラにしか見えない。そもそもHIPHOPや日本語ラップというもの自体の評価が、この日本では二極化されているのだ。音楽の嗜好は人によって千差万別だけど、ことヒップホップ・ミュージックに関しては「カッコいい!」と感じる人間と「日本語ラップとかダセえし聴いてられん」と感じる人間の差が激しい。そして後者の人間の方が圧倒的に多く、かつ両者の間柄は断絶していると言っていいとさえ思う。今作では、明確な意図を持ってその事実を極めて客観的に描いている。すなわちかっこ良くないのだ。本当に。
 だから映画が始まってしばらくは、登場人物たちのノリについていけなかったり、失笑してしまう場面が少なからずある。SHO-GUNGメンバーが溜まり場でフリースタイル・ラップに興じる姿や、IKKUが歌詞を紡ぐために社会情勢をチェックしたり新聞を切り抜きしている姿に、音楽で物事を表現しようとする人間の輝きを見て取れる人はいないだろう。物語の始まりの段階では、IKKUには「表現するべき事柄」が見つかっていないのだ。借り物のB-BOYファッションに身を包み、借り物の知識を歌詞にして、借り物のHIPHOPを語っているだけだ。
 IKKUの醜態は、劇中ありとあらゆる手段で描かれる。特に中盤に訪れるある場所でのライブは、この映画で唯一描かれるライブシーンなのにも関わらず(!)いたたまれなさで目を覆いたくなる仕上がりになっている。何らかの形でステージに上がる経験があった人なら、お腹痛くなるくらいの強烈なシーンだ。自分たちが信じてカッコいいと思ってやってきたことが、理解されない悲しさ。悲しいんだけど、観客である僕らの立場からして観ると、当然だよなあと感じさせられる客観性、それがこのシーンにはある。そしてその頃には(いやもっと早くかもしれない)観客もIKKUたちも残酷な真実に気づくのだ。誰も彼もが「持って」いないという事実に。
 そういった事実を観客に見せつけるための描き方は演出技法にも現れている。ワンシーン・ワンカットと暗転だ。現実の僕らがスタイリッシュに切り取られたカットみたいに動けないように、スクリーンの中のIKKUやTOMも、ブラブラ歩いたり下らない遊びで時間を潰したりする他ないし、気になる女の子と二人きりになったとしても、映画のようにロマンチックな展開に持ち込めるとは限らない。観ているこっちが気まずくなるような長回しはそのまま、彼らの気まずさと同義だ。
 そんなかっこ良くない彼らが成功するだろうというヴィジョンは、観ていてもまず浮かばないだろう。そうしてもはや観客の目に映る彼らは「映画の登場人物」ではなく「どこにでも居そうな(そして芽の出なそうな)ラッパー志望者」でしかなくなる。埼玉のど田舎の閉塞した世界の中で、何者かになりたいが何者にもなれず、言いたいことも見つからないのに何かをしなければという焦燥感だけが残り、漠然とした夢だけを持って、このままでは成功などできないと分かっているのに何故かその夢を捨てきれない愚かなラッパー志望者だ。

 だけどそれは指さして笑えることだろうか。持たざる者は夢を見てはいけないのだろうか。愚かな彼らをバカにすることは簡単だろう。でもそんな愚かな人々は、今僕が、そしてあなたが生きているこの現実世界の、この地平の地続きに存在してはいないだろうか?すれ違ったことは?友人には?そして過去の、あるいは今の自分の中にはいないだろうか?それに気づいたとき、もはや「観客」という安全な立場から「登場人物」を眺めることはできなくなるのだ。そのための演出、そのための脚本だと言っていいと思う。スクリーンを飛び越えて、物語の登場人物の枠を取っ払って彼らはすぐそこにいるのだと感じさせてくれる。

 そしてラスト。この長回しはほとんど唯一と言ってもいい、映画的なシーンだ。これは本当に奇跡だと思うんだけど、映画的でありながら現実と地続きでもあるという離れ技をやってのけている。もう一つ素晴らしいのは、このシーンがラップというものの本質を見事に切り取っていることだ。この作品がたとえば「サイタマノロッカー」では成立しないだろう。ラップでなければいけない意味、監督の、HIPHOPミュージックへの思いがつまった最高のシーンだと思う。このラストシーンに関しては他にもめちゃめちゃ書きたいことがあるんだけど、何言ってもネタバレになってしまうので我慢する。

 冒頭から執拗に描かれた「カッコ悪い」フリースタイルやライブでの曲は、それこそHIPHOPを聴かない人間の偏見通りの、ある種戯画的なモノだ。そしてそれは同時に、中身を持てず言いたいことも見つからないが故に、偏見通りの姿形になってしまっているという可笑しみや悲しみでもあった。痛々しくもよくある現実だ。しかしラストシーン、主人公であるIKKUが取る行動はどうだろう。苦難の末にIKKUは何を思い、何故それを選んだのだろう。そしてそれは観る人にとってどのように映るだろう。最後の一瞬の間の意味をどう捉えるだろう。エンドロールで流れる曲にどんなことを想像するだろう。それを考えることに、意味を持たせられる人は少なくないと俺は信じている。信じてるから薦めている。IKKUがしたことは、現実の僕らにだって、形は違えどできるはずだと思うから。

 「SR サイタマノラッパー」本当に良い映画です。観て下さい。「ロードサイドの逃亡者」は3作目だから間違えないでね!!