<life>fool</life>

愚者の人生。

11月2日、差別のない世界を創るために、東京大行進に行きませんか?

 来る11月2日、東京大行進というデモが東京で開催される。僕は、この日このデモで、できるだけ多くの人たちと、東京の街を一緒に歩きたいと思ってる。

 もう何年も前から、インターネット上には在日韓国・朝鮮人への差別が溢れかえっていた。そしてそれは差別の対象を拡大しながら、時とともに勢いを増して、遂には路上に現れるようになった。在特会を始めとした様々な行動保守団体は、執拗に差別を煽るデモを開催し続け、この国のあらゆる街に憎悪の声が響き渡るようになった。彼ら行動保守団体は、標的である韓国・朝鮮人達が多く住まうコリアンタウンや、その子どもたちが通う朝鮮学校、在日の老人たちが利用している老人ホームを標的にした。

 表現の自由を盾にして最悪の人種差別を繰り返す彼らは、コリアンタウンのど真ん中を我が物顔で行進した。東京の新大久保では「良い朝鮮人も悪い朝鮮人もどちらも殺せ」というプラカードが掲げられ、大阪の鶴橋では中学生の女の子が 「(コリアンが)憎くて憎くてたまらないです。殺してあげたい!」と叫び、周りの大人たちがそれに快哉を上げた。

 この国に共に住まう在日韓国・朝鮮人たちがどれだけ侮辱されようが、彼らの尊厳が踏みにじられようが、既存の法律では行動保守の蛮行は止められなかった。明らかな社会の不公正が放置されていた。そういった状況を受けて、行政よりも先に、街に住む無名の群衆が動き始める。

 一番初めはK-POPファンの中高生によるtwitterでの発言だった。新大久保を歩くデモ隊の差別的な言動に怒った彼らが、在特会会長桜井誠twitterアカウントに直接、一斉に怒りの声をぶつけ始めた。その姿に、行動保守団体の差別的な言動に問題意識を感じていた人々は奮い立った。デモの前後にコリアンタウンを練り歩き、外国人経営の商店や通行人に暴言を吐いたり嫌がらせをしたりする、通称「お散歩」を止めるため「レイシストをしばき隊」が結成された。デモを追いかけ沿道に立ち、差別反対のプラカードを掲げる人々が現れた。デモ隊の差別的な声が街に届かぬように、それをかき消すために、ある人は肉声で、ある人はトラメガで、あらん限りの怒りをぶつける人々が現れた。路上の騒乱に出くわした人々に、何が起きているのか説明を試みる人々が現れた。路上で見たものや感じたことを記録するために、社会の不公正に抗するために、写真や動画を撮影する人や、音楽にする人や、絵画にする人や、文章にする人が現れた。いつしかそれらは一纏めにして「カウンター」と呼ばれ、あたかも一つの団体のように扱われることとなったが、実際は違う。誰も命令されることなく、誰も命令することなく、一人ひとりが自らの意志で路上に出て、自分が出来る事でヘイトデモに抗していた。「いじめられて可哀想なマイノリティを守ってあげる」のではない。誰もが当事者だった。この社会に生きる一人の人間として、明らかな不公正に対して、差別という最低の社会悪を前にして、どういう態度を取るのか。「カウンター」と呼ばれる、一人ひとりの無名の群衆に、ただ一つ共通することは「私は差別を許さない」という意志を表明していることだけだった。「私は不公正を見過ごさない」という意志を、持てる力を尽くして表明していることだけだった。だから、カウンターは、ヘイトに抗すること以上に、街に住まう全ての人々に、即ちこの社会に意志を表明し、問いかけるものでもあったと思う。あなたはどうするのか。

 カウンターのうねりは大きくなり、大阪では「仲良くしようぜパレード」が開催された。そしてそれに呼応するように、昨年の9月、カウンターに参加してきた人々が中心となり、1回目の東京大行進が開催された。ヘイトデモに対する即時的な抗議ではなく、改めてこの社会に対して「差別をやめよう、一緒に生きよう」と叫び、意志を表明した。この日本で差別を許してはいけないという思いを政府に届けるために、人種差別撤廃条約の誠実な履行を求めた。レイシストたちが我が物顔で歩いた新大久保のあの通りを歩いた。いつも怒り、いつも悲しみながらヘイトデモに抗していた人々が、あの日は笑顔で歩いていた。立ち並ぶ商店からは笑顔の店員さんがこちらを眺め、手を振っていた。TOKYO AGAINST RACISMの文字を見て、サムズアップしてくれたり手を降ったり笑顔を向けてくれる外国人が沿道にたくさんいた。デモを興味深そうに眺めたり、飛び入りで歩く人も多く居たという。在日韓国・朝鮮人に限らず、この日本社会に潜むあらゆる差別に反対するという意志で、9月22日、多くの人々が東京を歩いた。

 あれから1年と少しが経ち、新大久保ではデモは起きなくなった。けれど、デモ参加者こそ減ったものの、現在も行動保守団体は各地でヘイトデモを続けている。カウンターと行動保守の激しい衝突によって、ヘイトは社会問題と捉えられるようになり、ヘイトスピーチという言葉が世の中に少しずつ浸透し、行政も法規制に関する言及を始めた。状況は去年よりはマシになったが、それでも差別がなくなった訳ではない。だからこそ、僕は11月2日、多くの人々と東京の街を歩きたいのだ。

 今回の東京大行進は「差別のない世界を、子どもたちへ」というテーマを掲げている。前述したように、行動保守団体は京都の朝鮮学校を襲撃した。そこに通う子どもたちの中にはPTSDを発症した子がいる。また、差別的な街宣に激昂した在日韓国・朝鮮人と思しき少年を笑いものにする動画も、インターネットには存在している。つい先日は、神戸三ノ宮のヘイト街宣で、自分の親に絡めた差別発言を浴びた青年が居たという。彼は取り乱し、周囲の静止が必要なほどに街宣に食いかかっていったそうだ。在日コリアンを友人に持つ高校生の子は、友人が、マイノリティとしてこの国で様々な差別を受ける現状への怒りや悲しみをtwitterの鍵アカウントで吐き出していたと言っていた。こういった具体例を挙げなくとも、もっともっとたくさんの子どもたちが、すでに被害を受けている。鶴橋で「朝鮮人を殺したい」と叫んだ中学生の女の子だって被害者のようなものだし、ヘイトデモにベビーカーを押しながら参加する夫婦もいた。

 差別はなくなっていない。未だ社会の不公正はそこに存在し、その被害を受ける者がいる。局面は簡単には変わらない。だからこそ11月2日、できるだけたくさんの人々と街を歩きたいと思う。結局のところ全てを一気に解決してくれる魔法は存在しないし、ヒーローはいないからだ。一人ひとりが意志を表明すること、それを拡げていき、大きなうねりを作り、目を向けさせること。そういうことでゆっくりとじわじわ進んでいくしかないのだ。それはとても遅々とした歩みかもしれないし、自分が生きている間に理想が成就することなんて無いのかもしれない。だけどもそれでも、歩き、進んできたから今がある。多くの先人たちが闘って来た果てにあるこの場所で、多くの先人たちが創り上げてきたたくさんの贈り物を胸に、更にその先を目指して、次に来たる者のために、未来の為に、歩きませんか?
 あなたがどんなに差別や不公正に対して許さないという意志を持っていたとしても、何かで示さないと、どこかで叫ばないと、それはないものとして扱われる。同化する必要はない、流される必要もない。あなたが思うあなた自身の意志を、表すための第一歩として、一人の人間として、街を共に歩きませんか?
 11月2日、新宿中央公園水の広場。12時集合、12時30分出発です。僕はあなたを待っています。

東京大行進2014 - TOKYO NO HATE (TOKYO NO H8)

ファナティックな美しさ

 ファナティックであるものというのはそれだけで他者の心をざわつかせる。『風立ちぬ』の二郎や菜穂子、あるいは『猫の地球儀』の幽や焔、現実世界で言えば何よりも宗教者ルター。ルターの「我、ここに立つ。私には、他にどうすることもできない。」という言葉、ここにある熾烈さはどうしたものか。

 信じるということはもうこれは、どうしようもなく賭けることだ。「間違いなく間違いない」ことなどこの世には無いし、もしあるとすれば、それに身を寄せることなど信じているという言葉には値しない。自分の信じるものは正しいと思う、けれども正しいかどうかは本当には誰にも解らない。他にどうすることもできない。それこそが信じるということだ。

 何かに狂ってしまった人というのは美しい。しかし、重要なのは、美しいことと正しいことは同居もするが相反することもあるということだ。むしろ、正しくない美しさの方がこの世には多い気がする。誤解を恐れずに言えば自分はそういうものが好きだ。けれどもその美しさは同時に儚いものであるし、端的に人を傷つけるし、サスティナブルではない。なので、やはり人は生きていく以上美しさよりも正しさを指向していくべきなのだと思う。正しくない美しさが人生のある一時期必要なものだとしても、最後にはそこから抜け出ていかなければならないのだろう。僕は正しくない美しさをこの世に現出させたくはない。それは幻想や物語の中に大切に閉じ込めておきたい。

ぽえとりー

 その道のプロでもない俺みたいな人間が分析めいたことをつらつら言い募っても全くもって意味が無い。だったらどうするかってそりゃあ愛してるって言うしかないんだろうな。思えば好きなものや好きな人に対してはいつだってそうしてきた。

 基本的にあんまり人や物を好きにならない。思い入れを持つというのは否応無しに傷つくこととセットだから、好きな人や物は少ないに限る。少ない分、審美眼には自信があるのだよ。というかそれくらいしか自分に自信があるところなんてないなと思う。

 ともちゃん9さいという詩人の方が居て「ちがあかビーバップ」という詩を書いている。演奏に合わせてポエトリーリーディングもやっているようだ。これがとても良い。「ビーバップ」というのはビーバップハイスクールのことではなくて、ビーバップみのるというAV監督のことなのだ。詩の中に丸々ビーバップみのる監督とAV女優の大沢佑香さんの会話が引用されている。ともちゃん9さいはその会話を指して「これを観て泣いた」という。「つまりわたしはこれくらいの愛情表現を簡単に受け止められるような人間になりたい。それはつまりこれくらいの愛情表現を簡単に受け止めてほしいということだ。」と書く。こういう書き方をする人が好きだ。ここには真実があるな、と思う。

 自分が信じたいものを信じるという行為を人間は誰でもやっていて、特別珍しいことではないのだけれど、どうしても多数派と少数派が生まれてしまうのは本当に悲しいことだ。何に価値を置くかで生き方は決まる。自分の信じるものがたまたま、あまり人に理解されないものだというだけで、白眼視されたりバカにされたり、そんなのはおかしいと思う。もちろん人間社会に生きる以上、秩序をぶち壊すことを信じている人が排除されてしまうのは仕方のないことなんだけど。

 でも、なるべくなら、誰が何信じたっていいじゃねえかと思うし、俺の信じるものがどれだけ素晴らしいかをあなたに伝えたいし、あなたの信じるものの素晴らしさを俺に伝えてほしいと思う。もうちょっとくらいは色んなことに寛容な世界であってもいいんじゃないかなっていっつも思ってる。みんなそれぞれ生きてて、にんげんなんだ。


ケツフェスト2014 ともちゃん9さい×三木悠莉バンド「ちがあかビーバップ」 - YouTube

友達100人いらない。

 それは隔たれていて、永遠に一つになることはないでしょう。



 孤独でない人間なんているものか。孤独なことを特権であるかのように言い募っても意味が無い、どころか害悪だ。だって孤独でない人間はいないのだから。それは当り前なのだから。
 良いことでも悪いことでもない、自然なことなのだ。問題はそれを知っているかどうかだよ。自分が孤独であることを、人が孤独な生き物であることを、それを正確に落ち着いて受け入れられているかどうかだよ。孤独という言葉が何か特別に見えるなら、こう言い換えてもいい。自分と他人は違う。

 自分と他人は違う。違う人と違ったまま生きること。ひとりとひとりは永遠にひとつにはなれず、ふたりのひとりで居続ける他ないのだよ。だからいいのじゃないかね。

みすたーわーるど

 上司とか後輩とか先輩とかもうとっても面倒くさい、わたしはあなたという人間と付き合いたい。思い上がりではなく。肩書なんか無くったって尊敬する人は尊敬するし、どれだけ肩書があろうとも尊敬できねえやつはできねえよ。そんな感じで相変わらず自分は人と何かをするのが苦手だと思うし、本当に人間関係なんて小さく小さくおいておきたい。友達100人要らない。

 好きな人と森のなかに小屋立ててそこで静かに静かに暮らしたい。けど実際やったらつらいだろうし、つらくなくても飽きるんだろうな。

 人間と接するときは相手と自分の関係性がどんなものであれある程度取り繕うことは大事だと思っていて、なんでかってどんだけ親しくても素っ裸でいきなりドーン!と参上する訳にはいかんでしょうよ、失礼だもの。昔どっかのジゴロが「服は脱ぐために着るのだ」なんて言ってたような気がするようなしないような、まあとにかくその言葉にも一分の理はあるが、ともかく段階を踏まなければいけない訳で、ありのままの自分をいきなりそのまま受け止めてなんつったら多分誰も相手してくれないと思う。それくらい素の自分ってのはしょうもないから、ある程度は取り繕わなきゃいけない。で、問題は、自分がこの取り繕うということの加減が非常に下手くそで、やりすぎるか素っ裸の2択になってしまうことだ。うまい具合に丁度いい場所を見つけたいんだけど、超難しいです。むり。取り繕うのは当り前に疲れるので、人と会うのが億劫になってしまうし、それはとてもかなしいのだ。

 THE BACK HORNのミスターワールドがとても好きで、歌詞の一節を繰り返し口ずさんでしまう。
 『何故、何処にも天国がないか?愛していないからさ。枯れゆく美しきこの世界を。僕さえ!』

 想ったことを口にすると人を傷つけるし、かといって想いを口に出さないことで徐々に腐っていく魂もある訳で、結局のところエゴとエゴのぶつかり合いがコミュニケーションというものであるのならば、誰とも話さず関わらず、一人閉じたまま生きていくのが一番良い、ってそんな訳あるかーい、と思います。

 お互いがお互いのことを傷つけてしまったとして「わたしはこんなに傷つきました」「わたしだってこんなに傷つきました」と、二人ともが自分の傷のことだけを言い合うのは最悪だ。でも「わたしはこんなに傷つきました」「傷つけてしまってごめんなさい(本当は、わたしも傷ついているのだけど)」と片方が我慢をするのは最悪よりももっと悪いだろう。「わたしはこんなに傷つきましたがわたしもあなたを同じように傷つけているかもしれない、ごめんなさい」「わたしは傷ついたけれどもあなたの傷だってひどいものです、ごめんなさい」これが一番理想的だしこういうことしかしていたくない。我慢するのも我慢させるのも嫌だし、自分のことで頭がいっぱいになるのはもっと嫌だ。

 素の自分というのはろくなもんじゃないからきらいだ。ろくでもない自分に対抗するためには常に正しさを追い求めるしかないし、そのように生きる人がすきだ。優しくされるのは苦手だ。人に優しくされるたびに、なんだか自分のろくでもなさを見せつけられるようでつらい。「そのままでいいよ」と言われるよりは「まだ足りぬ」と言われる方がなんだか本当な気がしてしまう。でも本当は心の奥底では所謂「無条件の愛情」みたいなのを求めているのだけれども、そんなものは存在しないし、そのままのろくでもない自分は愛されるに足るにんげんではないと強く思うので、求めるだけ無駄なのだし、そう考えると「無条件の愛情」というのもまたろくなものではないのだろう。

 色々とあって北千住から渋谷まで4時間ほど歩いたおかげで自分の中のモヤモヤしたものが少しだけ整理がついた気がするけど、どうなんだろうな。でも、どんなに遠くても歩けば辿り着くというのが解ったのは良かった。好きな人と好きなもののことだけ考えていたいのに、気がつけば嫌いな人や嫌いなもののことで頭がいっぱいになってしまうというのは、相当苦痛だ。何をしていてもべっとりと離れないからつらいよ。

 通り魔にでも遭わないかな、ってぼんやり思いながら歩いていたけれど、夜道は怖くて警戒して歩いてしまった。どんなにしんどくても、生きる気は失くならない。