<life>fool</life>

愚者の人生。

ファナティックな美しさ

 ファナティックであるものというのはそれだけで他者の心をざわつかせる。『風立ちぬ』の二郎や菜穂子、あるいは『猫の地球儀』の幽や焔、現実世界で言えば何よりも宗教者ルター。ルターの「我、ここに立つ。私には、他にどうすることもできない。」という言葉、ここにある熾烈さはどうしたものか。

 信じるということはもうこれは、どうしようもなく賭けることだ。「間違いなく間違いない」ことなどこの世には無いし、もしあるとすれば、それに身を寄せることなど信じているという言葉には値しない。自分の信じるものは正しいと思う、けれども正しいかどうかは本当には誰にも解らない。他にどうすることもできない。それこそが信じるということだ。

 何かに狂ってしまった人というのは美しい。しかし、重要なのは、美しいことと正しいことは同居もするが相反することもあるということだ。むしろ、正しくない美しさの方がこの世には多い気がする。誤解を恐れずに言えば自分はそういうものが好きだ。けれどもその美しさは同時に儚いものであるし、端的に人を傷つけるし、サスティナブルではない。なので、やはり人は生きていく以上美しさよりも正しさを指向していくべきなのだと思う。正しくない美しさが人生のある一時期必要なものだとしても、最後にはそこから抜け出ていかなければならないのだろう。僕は正しくない美しさをこの世に現出させたくはない。それは幻想や物語の中に大切に閉じ込めておきたい。

ぽえとりー

 その道のプロでもない俺みたいな人間が分析めいたことをつらつら言い募っても全くもって意味が無い。だったらどうするかってそりゃあ愛してるって言うしかないんだろうな。思えば好きなものや好きな人に対してはいつだってそうしてきた。

 基本的にあんまり人や物を好きにならない。思い入れを持つというのは否応無しに傷つくこととセットだから、好きな人や物は少ないに限る。少ない分、審美眼には自信があるのだよ。というかそれくらいしか自分に自信があるところなんてないなと思う。

 ともちゃん9さいという詩人の方が居て「ちがあかビーバップ」という詩を書いている。演奏に合わせてポエトリーリーディングもやっているようだ。これがとても良い。「ビーバップ」というのはビーバップハイスクールのことではなくて、ビーバップみのるというAV監督のことなのだ。詩の中に丸々ビーバップみのる監督とAV女優の大沢佑香さんの会話が引用されている。ともちゃん9さいはその会話を指して「これを観て泣いた」という。「つまりわたしはこれくらいの愛情表現を簡単に受け止められるような人間になりたい。それはつまりこれくらいの愛情表現を簡単に受け止めてほしいということだ。」と書く。こういう書き方をする人が好きだ。ここには真実があるな、と思う。

 自分が信じたいものを信じるという行為を人間は誰でもやっていて、特別珍しいことではないのだけれど、どうしても多数派と少数派が生まれてしまうのは本当に悲しいことだ。何に価値を置くかで生き方は決まる。自分の信じるものがたまたま、あまり人に理解されないものだというだけで、白眼視されたりバカにされたり、そんなのはおかしいと思う。もちろん人間社会に生きる以上、秩序をぶち壊すことを信じている人が排除されてしまうのは仕方のないことなんだけど。

 でも、なるべくなら、誰が何信じたっていいじゃねえかと思うし、俺の信じるものがどれだけ素晴らしいかをあなたに伝えたいし、あなたの信じるものの素晴らしさを俺に伝えてほしいと思う。もうちょっとくらいは色んなことに寛容な世界であってもいいんじゃないかなっていっつも思ってる。みんなそれぞれ生きてて、にんげんなんだ。


ケツフェスト2014 ともちゃん9さい×三木悠莉バンド「ちがあかビーバップ」 - YouTube

友達100人いらない。

 それは隔たれていて、永遠に一つになることはないでしょう。



 孤独でない人間なんているものか。孤独なことを特権であるかのように言い募っても意味が無い、どころか害悪だ。だって孤独でない人間はいないのだから。それは当り前なのだから。
 良いことでも悪いことでもない、自然なことなのだ。問題はそれを知っているかどうかだよ。自分が孤独であることを、人が孤独な生き物であることを、それを正確に落ち着いて受け入れられているかどうかだよ。孤独という言葉が何か特別に見えるなら、こう言い換えてもいい。自分と他人は違う。

 自分と他人は違う。違う人と違ったまま生きること。ひとりとひとりは永遠にひとつにはなれず、ふたりのひとりで居続ける他ないのだよ。だからいいのじゃないかね。

みすたーわーるど

 上司とか後輩とか先輩とかもうとっても面倒くさい、わたしはあなたという人間と付き合いたい。思い上がりではなく。肩書なんか無くったって尊敬する人は尊敬するし、どれだけ肩書があろうとも尊敬できねえやつはできねえよ。そんな感じで相変わらず自分は人と何かをするのが苦手だと思うし、本当に人間関係なんて小さく小さくおいておきたい。友達100人要らない。

 好きな人と森のなかに小屋立ててそこで静かに静かに暮らしたい。けど実際やったらつらいだろうし、つらくなくても飽きるんだろうな。

 人間と接するときは相手と自分の関係性がどんなものであれある程度取り繕うことは大事だと思っていて、なんでかってどんだけ親しくても素っ裸でいきなりドーン!と参上する訳にはいかんでしょうよ、失礼だもの。昔どっかのジゴロが「服は脱ぐために着るのだ」なんて言ってたような気がするようなしないような、まあとにかくその言葉にも一分の理はあるが、ともかく段階を踏まなければいけない訳で、ありのままの自分をいきなりそのまま受け止めてなんつったら多分誰も相手してくれないと思う。それくらい素の自分ってのはしょうもないから、ある程度は取り繕わなきゃいけない。で、問題は、自分がこの取り繕うということの加減が非常に下手くそで、やりすぎるか素っ裸の2択になってしまうことだ。うまい具合に丁度いい場所を見つけたいんだけど、超難しいです。むり。取り繕うのは当り前に疲れるので、人と会うのが億劫になってしまうし、それはとてもかなしいのだ。

 THE BACK HORNのミスターワールドがとても好きで、歌詞の一節を繰り返し口ずさんでしまう。
 『何故、何処にも天国がないか?愛していないからさ。枯れゆく美しきこの世界を。僕さえ!』

 想ったことを口にすると人を傷つけるし、かといって想いを口に出さないことで徐々に腐っていく魂もある訳で、結局のところエゴとエゴのぶつかり合いがコミュニケーションというものであるのならば、誰とも話さず関わらず、一人閉じたまま生きていくのが一番良い、ってそんな訳あるかーい、と思います。

 お互いがお互いのことを傷つけてしまったとして「わたしはこんなに傷つきました」「わたしだってこんなに傷つきました」と、二人ともが自分の傷のことだけを言い合うのは最悪だ。でも「わたしはこんなに傷つきました」「傷つけてしまってごめんなさい(本当は、わたしも傷ついているのだけど)」と片方が我慢をするのは最悪よりももっと悪いだろう。「わたしはこんなに傷つきましたがわたしもあなたを同じように傷つけているかもしれない、ごめんなさい」「わたしは傷ついたけれどもあなたの傷だってひどいものです、ごめんなさい」これが一番理想的だしこういうことしかしていたくない。我慢するのも我慢させるのも嫌だし、自分のことで頭がいっぱいになるのはもっと嫌だ。

 素の自分というのはろくなもんじゃないからきらいだ。ろくでもない自分に対抗するためには常に正しさを追い求めるしかないし、そのように生きる人がすきだ。優しくされるのは苦手だ。人に優しくされるたびに、なんだか自分のろくでもなさを見せつけられるようでつらい。「そのままでいいよ」と言われるよりは「まだ足りぬ」と言われる方がなんだか本当な気がしてしまう。でも本当は心の奥底では所謂「無条件の愛情」みたいなのを求めているのだけれども、そんなものは存在しないし、そのままのろくでもない自分は愛されるに足るにんげんではないと強く思うので、求めるだけ無駄なのだし、そう考えると「無条件の愛情」というのもまたろくなものではないのだろう。

 色々とあって北千住から渋谷まで4時間ほど歩いたおかげで自分の中のモヤモヤしたものが少しだけ整理がついた気がするけど、どうなんだろうな。でも、どんなに遠くても歩けば辿り着くというのが解ったのは良かった。好きな人と好きなもののことだけ考えていたいのに、気がつけば嫌いな人や嫌いなもののことで頭がいっぱいになってしまうというのは、相当苦痛だ。何をしていてもべっとりと離れないからつらいよ。

 通り魔にでも遭わないかな、ってぼんやり思いながら歩いていたけれど、夜道は怖くて警戒して歩いてしまった。どんなにしんどくても、生きる気は失くならない。

 我を忘れられたらどんなにか楽だろうな、と思う。人生の早い時期に、自分から離れて鈍くなるという自己防衛法を覚えてしまったおかげで、助かった心もたくさんあるのだけど、それと同時に感情にリアルが無くなってしまった気がする。俺の怒りは本当に怒りなのか。俺の悲しみは、歓びは、苦しみは、本物なのだろうか。
 いつもいつも俺の頭の斜め後ろにはもう一人の自分が居て、そいつが冷めた目でこっちを眺めている。そのせいで俺は俺の感情に集中できない。

 どんなに苦しくても辛くてもその気持ちで死ねる訳ではない。その事実が憎いな。何があろうと俺の命は変わらずに生命活動を続けるんだ。憎らしい。俺には今とても傷つけたい人間がいて、気がつくと頭の中ではそいつをどうやってズタボロにするかを常に詳細にシュミレーションしていて、でも決して俺はそれを積極的には実行しないだろう。その事実が憎いな。偶然ばったり街中で出会ったりしたらその時は是が非でも飛び掛かってやろうと思っているけれど、実際その時がきたとしたら俺は我を忘れることができるんだろうか、とか考えるとなんだか怪しい。言うまでもなく人を傷つけることは悪いことだし、暴力が何かを解決することなんてないし、俺ももう10代とかでもないし立派ではないけれど一応大人だし、手錠をかけられたくはないし、デメリットだらけなのも解ってるし。その他色々な所謂『正論』の前に俺の怒りは怒りのままでいられるんだろうか。正しくないことなんて本当に、解ってるんだ。でもそしたら、俺のムカつきとか悲しみはどこで晴らせばいいのだろう。いつだって傷つけた人間は傷つけられた人間がどれだけ苦しむかなんてことを知ることすらないままに、のうのうと生き延びるんだ。その事実が憎いな。報いを受けるべき人間にしかるべき報いを受けさせたいというだけなのに、どうしてこっちがこれだけ心理的コストを負わなきゃいけないのだろう。といったところで別に誰かに負わされた訳ではないあたりがどうしようもない。

 俺は聖人ではないし間違いもたくさん犯してきたし、ある日突然俺の前に誰かが現れて「私は過去のあなたの行為行動により現在傷ついています。報いとしてあなたを傷つけたいので、傷つけます」と言うならばそれを甘んじて受け入れるだろうと思う。自分がしたたくさんのひどいことというのはいつでも俺の影の中に在って、それは決して消え失せたりしない。忘れているつもりでもひょっこりと、過去のツケというのは顔を出してくるんだ。吐いた唾飲まんとけよってことだ。

 苦しいことが多すぎて、最近は積極的な希死念慮こそ消えてはいるものの、やがて訪れる死を心待ちにすることが増えた気がする。それってなんか、前よりいいのか悪いのか解らんが、まあでもどうせ死なないんだ。何かに殺されるまで死なないんだ。俺を殺してくれるものに早く出会いたいと思う。こんな世界に生きていたくない。俺もお前も汚れている。汚くっておぞましい。

 それでも結局は生きることも愛することもやめられないし、俺を殺そうしてくるものが現れたとて、必死に抵抗するんだろうな、たぶん。どれだけ汚泥に塗れても、決して削れたり奪われたりしない美しきものの存在を信じることはやめられないしやめたくない。つかれるね。

 つかれた、でもがんばるよ。