<life>fool</life>

愚者の人生。

 我を忘れられたらどんなにか楽だろうな、と思う。人生の早い時期に、自分から離れて鈍くなるという自己防衛法を覚えてしまったおかげで、助かった心もたくさんあるのだけど、それと同時に感情にリアルが無くなってしまった気がする。俺の怒りは本当に怒りなのか。俺の悲しみは、歓びは、苦しみは、本物なのだろうか。
 いつもいつも俺の頭の斜め後ろにはもう一人の自分が居て、そいつが冷めた目でこっちを眺めている。そのせいで俺は俺の感情に集中できない。

 どんなに苦しくても辛くてもその気持ちで死ねる訳ではない。その事実が憎いな。何があろうと俺の命は変わらずに生命活動を続けるんだ。憎らしい。俺には今とても傷つけたい人間がいて、気がつくと頭の中ではそいつをどうやってズタボロにするかを常に詳細にシュミレーションしていて、でも決して俺はそれを積極的には実行しないだろう。その事実が憎いな。偶然ばったり街中で出会ったりしたらその時は是が非でも飛び掛かってやろうと思っているけれど、実際その時がきたとしたら俺は我を忘れることができるんだろうか、とか考えるとなんだか怪しい。言うまでもなく人を傷つけることは悪いことだし、暴力が何かを解決することなんてないし、俺ももう10代とかでもないし立派ではないけれど一応大人だし、手錠をかけられたくはないし、デメリットだらけなのも解ってるし。その他色々な所謂『正論』の前に俺の怒りは怒りのままでいられるんだろうか。正しくないことなんて本当に、解ってるんだ。でもそしたら、俺のムカつきとか悲しみはどこで晴らせばいいのだろう。いつだって傷つけた人間は傷つけられた人間がどれだけ苦しむかなんてことを知ることすらないままに、のうのうと生き延びるんだ。その事実が憎いな。報いを受けるべき人間にしかるべき報いを受けさせたいというだけなのに、どうしてこっちがこれだけ心理的コストを負わなきゃいけないのだろう。といったところで別に誰かに負わされた訳ではないあたりがどうしようもない。

 俺は聖人ではないし間違いもたくさん犯してきたし、ある日突然俺の前に誰かが現れて「私は過去のあなたの行為行動により現在傷ついています。報いとしてあなたを傷つけたいので、傷つけます」と言うならばそれを甘んじて受け入れるだろうと思う。自分がしたたくさんのひどいことというのはいつでも俺の影の中に在って、それは決して消え失せたりしない。忘れているつもりでもひょっこりと、過去のツケというのは顔を出してくるんだ。吐いた唾飲まんとけよってことだ。

 苦しいことが多すぎて、最近は積極的な希死念慮こそ消えてはいるものの、やがて訪れる死を心待ちにすることが増えた気がする。それってなんか、前よりいいのか悪いのか解らんが、まあでもどうせ死なないんだ。何かに殺されるまで死なないんだ。俺を殺してくれるものに早く出会いたいと思う。こんな世界に生きていたくない。俺もお前も汚れている。汚くっておぞましい。

 それでも結局は生きることも愛することもやめられないし、俺を殺そうしてくるものが現れたとて、必死に抵抗するんだろうな、たぶん。どれだけ汚泥に塗れても、決して削れたり奪われたりしない美しきものの存在を信じることはやめられないしやめたくない。つかれるね。

 つかれた、でもがんばるよ。

生きている。

 JR渋谷駅ハチ公口の改札を抜けると夏だった。まだ五月だというのに確かに夏の匂いがした。じっとりと汗ばむ背中が蒸し暑くて、けれども嫌な感じはしない。駅から二十分程歩いた先には我が家がある。引っ越してから2年は経つかというのに未だにうまく歩けないスクランブル交差点、抜けた先は道玄坂、の、人混みをおっかなびっくり躱す、足取りはなるべく早く、イヤホンから流れる音楽に集中して、できるだけ音量を上げて、耳を塞いで。嬌声、怒声、笑声、全てが煩わしい、物憂い。だが下は向かない。前を向いて、なるべく胸を張って、平気な顔で歩く。音楽に乗って足を前へ、右足と左足を交互に動かす。そのうちにだんだんとそれが自動的になる。機械化された下半身は、立ち止まりたい動きたくないもうこのまま一歩だって歩きたくないという意識とは全く無関係に私の身体を自宅近くまで運び続ける。道玄坂を登り切って左手に牛丼屋、右手にコンビニ。曲がって円山町のホテル街から神泉へ。飲食店が立ち並ぶ道を抜けて、人通りが少なくなったところで煙草に火を点ける。それを一本吸いきるくらいでちょうどドアの前だ。
 鍵を開けて部屋に入って電気を点けて、スナネズミの様子を確認した後ベッドに倒れこむ。耳元で支えてくれた音楽を止めるのに少し躊躇して、曲が終わるまでイヤホンは挿したままでいる。最後の一音が鳴り終わったあと停止ボタンを押して、ゆっくりとイヤホンを取り外す。息をつく。日常が続く。静寂が心細く、また音楽に頼る。幽き笑顔を浮かべる人のことを想う。過ぎていった一日のことを無言で想う。気がつけば時間だけが経っている。
 日常を続けるために、重たい身体を起こして洗濯物をまずは回す。水場に立って、今朝がた水につけておいた食器を洗う。気が付くと手が止まっていて、何かを考えている。何もわからないのに考えている。明日の朝のために米を予約炊飯しておく。電気ポットで湯を沸かし、麦茶の用意をする。動作の一つ一つの合間に、何かを考えている。そのせいで遅々として進まない。何故こんなことをしているのだろう。どうせ汚れるものを洗う。どうせなくなるものを用意する。幾度満たしても腹は減る。そういう日常を続けている。生きている。何も終わりはしない。

東京レインボープライド2014に行ってきた。Rachel D'Amourさんがすごかった。

 東京レインボープライドに行ってきました。
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 イベントの趣旨はコチラ。

 とても良いイベントで楽しかった。パレードではTOKYO NO H8のフロートがやっぱり最高にかっこ良くて素敵だったなあ。大行進2014も楽しみです。

 パレードとフェスタ、両方とも本当に楽しかったけど、特に自分の中で印象に残ったのは、ドラァグクイーンであるRachel D'Amourさんのパフォーマンスでした。フランス人形みたいな衣装で登場して、早着替え(というかあれはパージ)で和装に変化、そこから服もメイクもつけまつげも剥ぎとって、男性の姿で万国旗を掲げ、最後にはレインボーフラッグを拳高く突き上げる。西洋から東洋へ、静的なダンスから動的なダンスへ、女性から男性へ、多様性と連続性を自らの身体で表現し切ってかつ、その全てが美しく堂々としていて、突き上げられたレインボーフラッグはまるで人間の誇りそのものへの最高級の賛辞のようで、その姿に思わず涙が溢れてしまったよ。あのパフォーマンスが観られただけで、足を運んで良かったと心から思った。ここ最近観た表現の中でダントツに素晴らしいものでありました。

 ニーチェがこんなことを言っていて。

自分を少しも覆い隠さないというのは、相手に不快の念を抱かせる。君たちは全裸であることを慎み怖れるべきである。君は君の友のために、自分をどんなに美しく装っても装いすぎるということはないのだ。なぜなら君は友にとって、超人を目指して飛ぶ一本の矢、あこがれの熱意であるべきだから。(ツァラトゥストラ

 虚飾の美には心揺り動かされることなんてないけれど、着飾ったRachelさんも、元々の自分を晒したRachelさんも、どちらも本当に美しくて、内面の美があるからこそ着飾ることに価値が産まれるのだなあというようなことを思いました。Rachelさんが掲げたレインボーフラッグは「これが私だ」というものだったと思います。偽らざる「私」を誇ること、愛すること。それさえあれば人はあんなにも美しくなれるのだな、ということを信じさせてくれたパフォーマンスでした。僕も、少しでも自分を好きになれるように頑張ろう。なるべく美しく生きたいな。

 余談ですが、性的マイノリティの方々は、まあ考えてみれば当り前の話なのだけど、マジョリティよりも心の病に罹る率が高いらしいです。
 それぞれの戦いの日々を生きていて、そんな中でひとときの祝祭として、誰もが誰もを否定せず、認め合って、祝福しあう。レインボープライドはそういう場であるのでしょう。だから、そのハピネスに対して斜に構えたりすることなんて絶対したくないし、これからもずっと続いて欲しいし、続くべきだと思います。抑圧に屈する必要なんて全くないし、踏みつけにしてくる足に正当性なんてないのだから。
 涙交じりのラブ&ピースが、ずっとずっと続きますように。もっともっと広がりますように。踏みつけにしてくる奴らをひっくり返せるくらいになりますように、そう祈る一日でした。来年が楽しみ。

日記。

 絶望は死に至る病だとキルケゴールは言ったが、それを正しいとするならば僕はまだ生きているので、本当の絶望というのを知らないということになるのだろうか。それとも、生きることの終着点に、逃れようの無い死が存在する事実から考えると、つまり生きることがイコール絶望であるということなのだろうか。だとすれば随分と悲観的な物言いだな。
 物事は俯瞰的に見ると喜劇であり主観的に見ると悲劇である、と誰が言ったかは覚えてないが、詠み人の名が解らずとも正しさは変わりない。僕は自分に対して努めて俯瞰的でいようとしている。鈍感と言い換えてもいい。その鈍感さが知らずうちに物事を喜劇的に見る目線を与えてくれるのであれば、鈍感なかなか捨てたものでもないと思う。深刻さなんてそもそも信じてないし。

 敬愛する坂口安吾は「教祖の文学」でこういうことを言っている。
 『人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえというのは成り立たない。恋は必ず破れる。女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起こり、去年の恋は今年は色がさめるものだと分かっていても、だから恋をするなとは言えないものだ。それをしなければ生きている意味がないようなもので、生きるということは全くバカげたことだけれども、ともかく力いっぱい生きてみるより仕方がない。』
 ことほどさように、生きるとは仕方がないことなのであり、本質的にバカげていることなのだから、そんなものを深刻ぶったって誰も見てないさ。そしてまた、バカげているからと言って世界のすべてがモノクロに見えるわけでもないのも真実だ。『教祖の文学』の締めの言葉はこうだ。
 『人間だけが地獄を見る。しかし地獄なんて見やしない。花を見るだけだ。』
 花を見る生き方をしていたい。ただそれだけだ。とはいえそう決めたからそうできるという訳でも無いのが人間の常で、そういうときは胸の奥の方がグッと締め付けられたように苦しくなる。この感覚に襲われるたびに少しだけ「これで終われるのかしら」と思ったりもするけど、全ての感情の高鳴りがそうであるように、この感覚もまた一瞬のもので、あとは汐のように引いていくだけだ。つまらんことを考えたものだな、と頭を掻いて、また花を探しに行くだけである。

 
 人間誰しもめいめいが苦しみを持つもので、老若男女そこに差を設ける考え方を僕は好まない。大人の苦しみが、ただ大人だからという理由によって、子どもの苦しみよりも重く見られるというようなことがあってはならないと考えている。と思ったらこれもまた坂口安吾が似たようなことを言っているのを発見して、苦笑してしまうな。本当に、何かと何かの継ぎ接ぎでできていると感じる。けれど大森靖子さんだって「オリジナルなんてどこにもないでしょ」なんて言いながらあんなにかっこいい姿を見せてくれるのだから、あまり気にしても仕方がない。自分が継ぎ接ぎであったとしてもなお、自分は自分でしかないのだし、今日生きた時間は自分だけのものなのだし、そうやってなんとか言いくるめて夜を越える。ときには文字を書く。運が良ければ誰かに読んでもらえる。インターネットというのは偉大なもので、書いたものは長いことそこに残る。僕が大好きだった小説家は何年か前に死んでしまったけれど、彼の書いた小説はいまだに検索窓にタイトルを打ち込めばヒットするのだ。

 この前観た「ダラスバイヤーズクラブ」という映画の感想を書こうと思っていたのだけど、伊藤聡さんのblogに書かれていた感想が完璧で、付け加えるものがなにも無かったのでいいや。最高の映画だったよ。

 「九月、東京の路上で」を読み終えた。約90年ほど前の関東大震災の折に、自分が住むここ東京で虐殺と呼ばれるものが繰り広げられたというのは、知識としては知っていたけれど、当時起きた事件の一つ一つを当事者や観測者の生の声のままに読むというのは重たい。暖かくなったら、文中に出てきた土地の一つ一つに行ってみよう。

 一日本を読んで音楽を聴いていた。会いたい奴に会いたいなあと思った。それだけのことが、どうにも難しい。

ライブとか契約とか約束とか投壜通信とか、ただの日記。

 3月19日、友達のやっているunknown pleasuresというバンドのプチ遠征ライブに付いていった。千葉県は稲毛にある稲毛K's dreamというライブハウスである。ここは何度かお邪魔したことのあるライブハウスで、店長さんが熱心なカート・コバーンの信奉者らしく、カートの写真が沢山飾ってある。子供時代のカートは天使のようだなと思った。ステージも高くてかっこいいし、バーの雰囲気が良くてホットドッグが美味い。良いライブハウスだ。

 ライブはとても良かった。もう何度もライブを聴いているが、友達びいきを抜きにしてもかっこのよろしい音楽を鳴らしているバンドだと思っている。そして、対バンのThe Rueeというバンドがこれがまた最高だった。ドラムとギターの2人で演奏されているのだが、ギターがベースアンプ含めてアンプ3台という鬼畜仕様でポストロックという感じ。聴くのは2度めで、1度めはあまりピンときていなかったのだが、今回は最高だった。そこで鳴っている音のことだけを考えることができた。これはとても幸福な時間である。

 一説によると母親の胎内で鳴っている音はノイズ音に似ているらしい。僕はでかい音が好きで、ノイズミュージックが好きだ。鳴る音に脳みそをかき回される感覚はとても気持ちいい。安心を感じる。そのままどこかに飛んでいきそうになる。でも気持ちの良いノイズとそうじゃないノイズというのがあって、あの違いは何なのだろう。人柄?分からないけど、何かあるのだ。包み込むようなノイズの海に飛び込みたい。私は海を抱きしめていたい、という感じ。また聴きたいと思うバンドだった。

 契約は好きじゃない。契約には強制力があるから嫌いだ。たとえば僕が誰かに「また会おう」と言う時、その「また」は必ずやってくると保証できるだろうか。明日死ぬかもしれない。明後日死ぬかもしれない。自分か、あるいは相手が次の瞬間にはいなくなってしまうかもしれない。そういった場合「また会おう」の言葉を契約としてしまったら悲劇だ。達成されない契約ほど悲しいものはない。達成条件に至らなかった契約の行く末は自罰か他罰か。そういうのは息苦しくって嫌になる。とはいえ生きている以上、幾つもの契約を果たさねばいかんのはこれはもう、社会の仕組みがそうなっているので仕方が無い。仕方が無いといいつつ僕はいつまでたっても大人になれず、社会というものに対してやけっぱちのように舌を出しバカにして、死ぬ思いで遊んでいるけど。とか言うと太宰治だな。まあいいや。

 せめて、友達とかそういうのとは契約をしたくない。約束がしたい。約束は、果たされないことを前提にするものだ。たとえば誰かに永遠の愛を誓うとき、片方では常にその終わりを想っているような、そんな矛盾に遭遇したことはないだろうか。僕にとって、約束の形をとって放たれる「また会おう」の言葉は、常に「もう会えないかもしれない」を含んでいる。果たされないことを前提にしているのだから強制力は無いし重圧も無い。そこにあるのは祈りだけだ。
 人というのは元来が勝手気ままなものであり、何かを強制されることにはそぐわない。舞城王太郎は、愛は祈りだと書いていたが、それはまことその通りだと思う。心からの親愛というものは、相手に何かを押しつけないのだ。勝手に祈るだけである。そしてまた、果たされなかった約束はしばしば物語に姿を変える。だから約束はした時点で無駄がない。しておくだけするが良い。それは性質としては守る/守らないという言葉には帰結しないものなのだ。再見を約束した相手と二度と相まみえることが無かったとて、それを責める権利は本当は誰にもないのだ。責める気持ちが産まれたとすれば、それは約束でなく契約だっただけの話である。それってめちゃめちゃつまらないぜ。

 明日世界が終わるとしても、できるなら僕は約束がしたいと思う。人というのは、そういうどうしようもない切なる思いの表出によってしか生きられず、また誰かを生かすこともできないのだろう。

 パウル・ツェランという詩人がいる。ツェランは詩を投壜通信のようなものだと語った。荒れ狂う海を渡る航海者が、ついに遭難してしまうというときに、自分の名前や想いを記した手紙を壜に入れて海に投げ入れる。それは誰かに届くかどうか解らない。そのまま海中深くに没してしまうこともあるだろう。運良く岸辺に流れ着いても、誰にも気付かれず朽ちていくだけかもしれない。壜を手にとってもらえたとして、中を覗くかは解らない。それでも投げ入れられる通信、それが詩だと語ったのだった。そして今、ツェランの言葉は僕の手の中に届いている。届かなかった幾つもの手紙を背負って。

 そこには祈りだけがあった。
 そういうことなのだ。以上終わり。

大森靖子さんのライブのこととかヘイトデモとか水タバコとかただの日記。

 3月14日、恵比寿LIQUIDROOMで開催されたライブに行った。敬愛する大森靖子さんのアルバム「絶対少女」のツアーファイナルだ。ライブが始まってすぐ、メジャーデビュー発表があった。エイベックスからというのがなんとも大森さんらしいなと思った。

 少し時間を戻す。大森さんの音楽に初めて触れたのは1年前くらいのことか。渋谷Village Vanguardのインストアライブだった。当時彼女はアルバム「魔法が使えないなら死にたい」の発売直後、か直前だったかよく覚えてない、CDその場で買ったような気がするから直後か、少し経ってからか、まあどうでもいいか。

 「魔法が使えないなら死にたい」のジャケットが椎名林檎の「勝訴ストリップ」のあからさまなパロディで、それが面白くってまあ聴いてみるか~みたいなノリで、つまりはイロモノ系だと高を括って物味遊山で、あの狭くて小さいステージとも呼べないステージの最前列、大森さんの目の前に腰を下ろした。当然この高を括った態度は一瞬にして粉砕されることになる訳なのだけど、音楽を言語にして表現するのは僕の最も苦手とするところであるから、何故粉砕されたのか、何が魅力的だったのか、そういうことは説明できない。ライブ行けば?って感じだ。音楽を聴きたいなら文字なんて読まないで音楽を聴けばいいのだ。

 ともかくそのときから、ちょうど1年ほどだ。レーベルにも事務所にも属さず1人で渋谷QUATTROを満員にしてたり、新宿ロフト戸川純ちゃん相手に堂々のステージを披露してたり、お金が無いので行きたいライブを厳選して通って、そのたびに心臓を鷲掴みにされて、そんなこんなでメジャーデビューだ。どこまで行くんだろうな。どこまでも行くんだろう。彼女を見つけられて本当に良かったと思った。
 LIQUIDROOMでのライブはバンド形式だった。僕は正直大森さんは弾き語りが一番良いと頑なに思っているところがあったのだけど、そんなどうでもよいしょうもないこだわりを飛び越えて、すさまじくかっこのよろしい音楽を鳴らしている姿を目の前にしてはもうごめんなさいという他にない。アルバム「絶対少女」はカーネーション直枝政広がプロデュースをしていて、今回のライブでのバンマスとしても参加されていたのだけど、この方がまた久しぶりに死ぬかと思うようなギターを弾く方であった。またこのバンドでライブをして欲しいと思った。島倉千代子「愛のさざなみ」をウルトラノイズ歌謡に仕立て上げて演奏していたあの時間は、先ず間違いなく自分の音楽体験の中で忘れられないものの一つだ。ちなみにライブが終演した後、大森さんはいつものように出口に立って観客を見送っていた。メジャーデビューということになっていつまでそういうことが出来るかはあずかり知らぬところだが、やれる限り続けることだろう。

 そういえばこのライブでは、僕を何かと慕ってくれるともだちが来ていた。生きるのが辛いという、愛すべき人間だ。そういう奴がこの日のためにただそこで鳴る音楽を聴くために生き延びて、遠路を越えてライブハウスに足を運び、そして音楽に触れて、一瞬の祝祭を胸にまた明日を迎えていく。とても尊く素晴らしく愛すべき出来事だと思った。太宰治は「着物を貰った。夏まで生きようと思った」というようなことを書いていたが、生きるということは突き詰めるとそういうことだろうと僕は思っている。藝術は命に直結する。そういう音楽を鳴らす人を僕は好きであり続けるだろう。そいつとは、お互いようよう生き延びて、またライブに行こうと約束した。そういう約束もまた、人を生き延びさせるものになる。

 その後一日寝て、3月16日に池袋で行われたヘイトデモのカウンターに足を運んだ。ヘイトデモについての説明は去年書いたこちらの記事を参照して欲しい あれからかなり時間が経って、新大久保でのデモこそ無くなったものの、デモ自体が消え去った訳ではない。今回は豊島区公会堂でヘイトデモ側の集会があり、その後デモという流れ。カウンターはこれを囲みデモを中止させようという趣旨であった。今発生しているカウンターは欧州でのANTIFA(Anti-facismの略)運動を教科書にしているところがあって、今回は4年前、ドイツのドレスデンで起きたネオナチデモを止めた人間の壁を踏襲しようということだった。

Documentary film 13.02.2013 Nazifrei Dresden Antifa blockade Hbf - YouTube
 デモ開始は16:30とのことだったが、過去の経験上道路封鎖などで現場近くに近づけなくなる心配もあったので、お昼ごろには豊島区公会堂前の公園に着くようにした。時間が経つにつれてカウンターとおぼしき人々が増えてはいくものの、今回もまたデモ自体の中止は望めないだろうな、と思った。
 デモ開始の時間が近づき、隊列が抜けてくるであろう通りの辺りに陣取った。機動隊はいつもながらガッチリと目の前でカウンターを抑え込んでいる。そのうちに、何度聞いても慣れないあの街宣車のスピーカーからの口上が耳に入ってくる。やっぱりそうなんだな、と思った。中止にはならない。だったら叫ぶしかない。それからは特に言うこともなく、いつものように走ってデモ隊追っかけて、機動隊に抑え込まれながら、街に奴らの声が届かないようにすることだけだった。ちょっと違うのは、街の人の目が以前よりカウンターに対して理解・共感してくれているような空気を感じたことくらいか。ほんとうのところはどうか分からないけど。
 当日の映像はコチラ。長いので空気感だけでも。個人的にはラスト1分くらいのカウンター参加者と機動隊の対応を見ると色々考えさせられるものがある。

在特会デモ 池袋 豊島公会堂 2014/3/16 - YouTube

 日付変わって3月17日は友達2人と渋谷の水タバコカフェに行ってひたすら超下らない話をして帰った。友達Kくんがセックス強者・セックス弱者という概念を提唱していた。彼はセックス強者になりたいらしい。たいへんなことである。このKくんとは以前デパートメントHという古今東西選り取りみどりの性嗜好を持つ紳士淑女が寄り集まるファッキンクールなイベントに乗り込み、二人して多大な敗北感を得て帰宅したことがある。僕たちは思っているよりノーマルだし、自分の性嗜好について突き詰めて考えていないし(考える必要というか考えていきたいかというとそこは個人的には微妙なところなのだが)とにかくまあ世界は広い。色んな人がいる。ちなみにデパートメントHは、色んな人が否定されずに伸び伸びと楽しそうにしていて、とても良いイベントだった。あとはアナと雪の女王が観たいとか、プリンセスと魔法のキスのホタルの下りがマジで泣けるから観ろとか、パンズラビリンスは良作か否か、とか。3人とも映画が好きなのである。ダラスバイヤーズクラブのレイヨンの美しさのこととか話した。水タバコは初めて吸ったけどとても美味しかった。その後、宗教についての真面目な話になってたりもしたけど、なんだか集中できなかったので2人の語るのをぼーっと聞いていた。家に帰って、集合前に渋谷紀伊国屋書店で購入した「九月、東京の路上で」を少し読んで、淡々ととてもヘヴィだったのでゆっくり読むことにして寝た。そんな三日間。

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

 好きなやつと好きなアーティストのライブを聴いて、許せないものに怒り、またすきなやつと好きなものの話をする。そんな感じでこれからも生きていきたいなあ。お金がほしい!

太陽の孤独 -FREE DOMMUNE 2013-

 FREE DOMMUNEに行ってきた。本当に楽しくって、フェス童貞というやつをこのイベントに捧げられて良かったなあと思った。捧げられた方は別に嬉しかないだろうけども。
 会場に居る時はもう何もかもが極上の体験すぎて、いちいち噛み砕きながらということが出来ずに、終始「やべー!やべー!」とブチ上がっておった次第なのだけど、帰って来て頭がクールダウンしてくるに従い、色々考えがまとまってきたので雑感という形で記しておくことにする。意味付けが好きな自分がなんだか阿呆らしいなあと思ったりもするけど、そういう性分であるから仕方ない。
 お目当てであり即ち丸々観た順番としてはZAZEN BOYS→BOADRUM→瀬戸内寂聴→三宅洋平→灰野敬二坂口恭平といった感じ。あとはなんか飯喰ってAMAZINGDOMEで踊って煙草吸って東浩紀の話ちょっと聴いたり海女映画で笑ったりしてた気がするけどあんまり覚えてない。初音階段も少し観たか。

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